ヨハネの手紙一1:1~4、ルカによる福音書15:1~7
2007年7月30日 夏期講習会
「喜びが満ちあふれるように」との主題を掲げて教育講習会が開催されました。全国各地から170名余の皆さんが参加してくださったことを感謝します。
創世記の第1章に、「神は天地のすべてを造り、人を男と女とに造り、お造りになったすべてのものをご覧になり、それは極めて良かった」と言われた、と書かれてあります。しかし今、世界的な広がりのなかで、異常な気象や天変地変のような災害が繰り返し起こり、多くの人々を困難に巻き込んでいます。
この問題の背景には、神が造られたすべてのものを、神のみこころにそって管理し治める責任と光栄を与えられた人間が、地球上の乱開発や、急速な産業の発展による大気汚染、地球の温暖化問題など、神のご意志に反するような方向に陥って罪を犯している問題が伴っています。
明後日、8月になりますが、多くの教会では、8月15日の第2次世界大戦の終戦記念日を、終戦記念日ではなく、日本が戦争によって破綻した敗戦記念日として覚え、多くの教会で平和を覚える特別礼拝がささげられることと思います。
しかし、第1次、第2次世界大戦の大きな犠牲が払われたにもかかわらず、20世紀から21世紀に向かって、歴史は平和の到来とは逆行して、再び 利権を巡っての戦争や、民族紛争、テロなどによる無差別殺戮事件が相次いで起こされ、多くの人の命、人格が踏みにじられ、脅かされています。
また、私たちの身辺では、大都市や地方、農漁村などの地域性をも含めて、毎日のように非日常的な殺傷事件が報道されています。
最近警察庁07年6月5日に発表された「06年度中における自殺の概要資料」によれば、05年度の自殺した人は32,552人で、自死した人が連続5年30,000人台を下回ることがなかったと報告されています。
何と多くの人が神のみ前から失われていることか、何と多くの人がイエスによって表された神の愛を知ることなく神から与えられている掛け替えのない人生を見失ったままでいることか、という思いを深く抱かせられています。
私は今、教会で高齢者担当牧師として牧会を分担して御用に当たっていますが、介護を受けておられる方々、介護に当たっておられる家族関係者の中で、数名の方々が抱えておられる心の病いの問題に慎重に対処していなかえればならない課題に直面し
ています。
そのような人たちと、主イエスの愛のもとに共に生きることができるように、自分の足りなさを覚えながら日々祈りのうちに交わっています。
前置きが長くなってしまいましたが、喜び、平安、希望が失われていくこの世に、真実の愛をもって救いを携えてこられたイエスがなさった「見失った羊」のたとえ話しに、改めて注目したいと思います。
この例え話は、いつどのような所でなされたのか、ルカ15章1~2節に書かれてあります。
徴税人や罪人たちが、話を聞こうとしてイエスに近寄って来ました。イエスは、その人たちと食事を一緒にされました。食事を一緒にするということは、その人たち一人一人の存在を認め、受け入れ、同じ席につき、心を許し合い、愛をもって交わりを共にすることであります。
しかし、当時ユダヤの民衆の指導者であったファリサイ派の人々や律法学者たちはそれを見て、不平を言い出しました。当時ユダヤ社会では、徴税人、羊飼い、「売春婦」と言われた人たちは、神のおきてを軽んじる人たちであると見なされ、十把一からげに罪人扱いにされ、蔑まれ、社会的にはむしろ多くの人々が彼らを同じように見なしていました。
ファリサイ派の人や、律法学者たちは神のおきてに忠実で、熱心であったことから、自分たちは正しく生きている者であり、神に顧みられ、祝福を受けることが出来る者であると自負する傲慢に陥っていました。 彼らは、彼らが罪人扱いする人達に対して愛の感性を働かせることもありません。
彼らから言わせると、神の顧みも受けることなどは出来ないはずの徴税人や罪人たちと、イエスが食事を一緒にしていることなどは宗教的、社会的慣習としても到底認められないことでした。
彼らは徴税人や罪人たちが、みんなから嫌われ、蔑まされるような職業にどうしてつかなければならなかったのか、そうした人たちは今、毎日をどんな思いで暮らしているのか、彼らの心の内側に触れるようなことは全く無視して、彼らを厳しく見下げ、退けて行ったのです。
イエスはそのように、人を差別し、裁くファリサイ派の人々や律法学者たちに「見失った羊」のたとえを話されました。
まず、「あなたがたの中に百匹の羊をもっている人がいて、そのうちの一匹を見失ったとすれば、」と語りました。
イエスは、このように話を切り出すことにっよって、ファリアイ派や
律法学者たちにも、「あなたがたが蔑んで見ている羊飼いの立場に、自分自身の身を置く人になってごらんなさい。あなたがたと羊飼いたちとは、人間として全く違う存在なのか。
あなたがたは、自分たちと羊飼いたちとをそんなに区別できるのか。羊飼いが愛の労苦を注ぎ出して、どんなに羊を守り、育てているか、あなたがたは分かっているのか」と彼らに問いかたのです。
羊は遠くは見えない、ごく限られた身辺しか見えない家畜でした。その一匹が見失われたということは、彼の存在が危うくなることでした。ハイエナなどに襲わたり、深い谷底に転落したりして死んでしまう危機にさらされることになります。
しかし羊飼いにとって一匹の羊はどんなことがあっても決して見失ってはならないかけがえのない存在です。
疲れた体をひっさげて、夕暮れ迫る野山に出て行って、見つけ出すまで探しまわることは、羊飼い自身も谷底に転落するとか猛獣の餌食(えじき)になりかねない危険が伴うことです。
この羊飼いの姿は、ヨハネ第一3章16節に、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました、そのことによって、私たちは愛を知りました。」と書かれてあるみ言葉と同様にイエスの十字架の愛を表しています。
ヨハネ第一3章16節と奇しくも同じ3:16節のみ言葉がヨハネ福音書にも書かれてあります。「神は、そのひとり子を賜ったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と。
このように、福音書と手紙の両方のヨハネ文書に、人が一人として滅びて失われることがなく、永遠の命にまで生きる者とされるために、イエス・キリストは神から世に遣わされた救い主であると、告げ知らされています。
人が一匹の羊を見失ったとしても、神は決してその羊を見失ってはおられないのです。見失われた羊が、神の愛のもとに立ち返って生きるものとなるために、ご自分の命をかけて捜し回るお方が、イエス・キリストによって表された神です。
私の娘夫婦に、さる20日(金)無事に女児が与えられました。3400グラムで安産でした。上にこの4月から浦和の教会の幼稚園に入って今、3歳と10カ月になる男の子がいます。2カ月くらい前から、教会にくるといろいろな人たちから「もうすぐ兄ちゃんになるのね」と言われたり、本人も何となく身辺の変化に気づき始めたようで感情の揺れ動きが見られていました。
車で30分離れた所に住んでいますが、出産数日前の日の母子の次のような話のやりとりがメールで入ってきました。
「ママ、僕のこと見てる? 遠くからも見てる」、「見てるよ」、「幼稚園のときも見てる?」、「そうね、あなたが何しているか考えたりしているよ」
「それって、愛ってことだよね」。娘はその後に(驚き!)と書き留め、続いて、「ママはいつでもそばにはいられないけれど、神様はいつもあなたのそばにいて見てくれているよ」と書かれてありました。
毎週、教会学校に出席し、主日礼拝で子どもメッセージを聞き、恐竜に取り付かれ、恐竜の絵本でカタカナ、平仮名も読めるようになり、礼拝での讃美歌や交読文も平仮名でスクリーンに映し出されますので、お祈りや讃美歌のレパートリーも大分広がってきました。
メールで送られてきた親子のやりとりの背景には、イエスさまは羊飼いとか、見失った羊のたとえなどのお話しがイメージとしてインプットされているのではないかと思います。幼稚園の先生方や教会学校の嬰幼児クラスのスタッフの方々に改めて感謝しています。
徴税人も、罪人も、ファリサイ派の人たちも、律法学者たちも、あるがままのその人、その人に目を注ぎ、ご自分の命を与えてまでも愛するイエスの愛によって、どんな人でも、なくてはならない存在として愛され、決して失われることの無いように見守っていてくださるイエス・キリストの存在を、私たちは出来る限りの手を尽くして、子どもから高齢者にまで至る人々に伝えていかなければならないことを、今日のような時代、社会状況の中で痛感させられます。
多くの子どもたち、青少年、子育てや介護にかかわる人たち、弱さや喪失感との葛藤にさらされている高齢者、あるいは、格差社会の中で過重な労働の重荷を背負っておられる人たちなどの中に、自分が自分であることを見失ったり、居場所がないと悩んでいる人たちが少なくないのです。
今回の講習会では、ヨハネ第一1章1~4節のみ言葉から、「喜びが満ちあふれるように」と、主題が掲げられています。
主イエスの愛を互いに、「命のみ言葉」として受け止め、これを伝える人も、伝えられる人も、喜びに満たされたい、と願って選ばれたものです。
1章1~4節には、キリスト教視聴覚教育への思いを深めるのにふさわしい言葉が、重ねて書かれてあります。
「わたしたちが聞いたもの」、「目で見たもの」、「手で触れたもの」、「この命は現れた」、「この永遠の命を見て」、「聞いて」、「証しし、伝える」。 このようにして私たちは、「御父と、御子イエス・キリストとの交わりをもつようになり、そこに喜びが満ち溢れるようになること」が書き記されています。
この講習会では、みなさんが、教会、幼稚園、保育園、学校などでかかわる子どもたちや、また様々な状況におられる人々の心の琴線に触れるように、イエス・キリストにある交わりの豊かさをコミュニケートするための多様なあり方を分かち合われることになると期待しています。
〔祈り〕
一人一人を、見失われてはならない者として顧みていて下さるイエスの愛を覚えながら、心を開いて触れ合う交わりの喜びが、教会に広がり、家庭に広がり、社会に、世界に伝わっていくことが出来ますように。 講師の方々、参加者お一人一人の上にあなたのお支えと豊かな祝福がありますように。
アーメン