ルカによる福音書19章1~10節
2007年7月31日 夏期講習会
徴税人ザアカイの出来事はルカ福音書にだけ記されていますが、多くの人々によく知られ、親しまれている有名な出来事の一つであります。
ザアカイが生まれ変わった出来事の背景になっている当時の社会状況やザアカイという人物について始めにお話ししておきたいと思います。
エリコは死海の北9.5キロ、ヨルダン川の西約1.5キロの地域にあった町です。エリコは世界で最古の町とも言われていますが、紀元前8000年位に最初の町が作られたそうです。
イエスさまがユダヤで公の働きをなさった頃は、パレスチナはローマの占領下に置かれ、ローマ皇帝は、ヘロデ・アンティパスという人をユダヤの藩主に任命して植民地の居住者に納税の義務を負わせていました。
エリコは、特にユダヤの北部と南部を行き来する人たちが通る町であり、また死海の東の方と、エルサレムから地中海沿岸、またエジプト方面に行き来する人たちも通る町でした。つまりエリコはパレスチナの東西南北に通じる交通の要路になっていた町でした。緑も多く、良い水がわき出ていて、豊かな町であり、東西に荒れ野が広がる中で、美しいオアシスの町になっていました。
またエリコはローマ人がなつめ椰子の実と、パルサムという木からとれる樹脂から素晴らしい加織を遠くまで放つ香料を世界中に輸出する中心地になっていて、エリコの徴税人は不当な税金を多く取り立て金持ちになる条件に恵まれていた町でもありました。
ザアカイについては19章1節に、「この人は徴税人の頭で金持ちであった」と書かれてあります。ザアカイは今日的に言えば、エリコの税務署長の仕事をしていたわけです。
当時のユダヤ人たちには、直接税と間接税と二重の税金があって、直接税は生産物の20~25%に課せられ、間接税は、橋や川の渡り場、町の入り口の市場などで徴収されました。
徴税人たちはローマの役人に雇われ、貧しい同胞から税金を取り立て、それも不当に取り立てて自分たちのふところを肥やしていたのですから、同胞のユダヤ人から反感を買うのは当然です。
多くの徴税人は職を得られず仕方なく徴税人になっていましたが、不当な利得で財産を作れるのは徴税人の頭だけに限られていました。
7節には、イエスさまがザアカイの家に入るのを見て人々は皆つぶやいたと書かれてあります。
ユダヤ人の指導者であったパリサイ人や律法学者たちは、徴税人をいつも罪人や売春婦たちと一緒に見なして彼らを白い目で差別し、のけ者扱いにしていました。
ザアカイは、支配者側のローマの権力を背景にして、同胞のユダヤ人たちから、しかも不当に税金を取り立てていた徴税人の頭でしたから二重の憎しみと軽蔑を受けたのも当然のことと言えます。
3節を見ると、「ザアカイは背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることが出来なかった」とあります。
彼は恐らく子どもの頃から、「やーい、ちび、ちびさん」などと人の人格を傷つけるような悪い言葉を浴びせられていたのではないでしょうか。
その反動から税金をだまし取ってでも金持ちになって自分をばかにする人たちを見返してやろうというように彼の性格を歪めていったことも十分推察できることです。
3節に、「イエスがどんな人か見ようとした」と書かれていることや、6~7節に、ザアカイが喜んでイエスを迎え入れたのを見て、「人々はつぶやいた」と書かれていることから、ザアカイは金持ちにはなっていたけれども、自分の心の中には何か空白が出来ていたことを感じたり、世の中の人々との交わりを失ってしまった孤独感がつのっていたのではないかと思います。
ザアカイの姿には、人よりも、物や氾濫する情報に心を奪われて、神と隣人への気づきや関わりを見失っているわたしたち多くの人間の姿が映し出されているのように思われます。
ルカは、僅か数行の文章ですが、この時のザアカイの行動を、私たちの目に映るように端的にユーモラスに、しかも生き生きと書き表しています。
イエスがどんな人か見ようとしたが背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
背の低いザアカイがイエスを見たいと、人々をかき分けて前に出ようとしても、だれもそうさせてはくれなかった。
そうだ、と彼は一つのことを思いつきました。走って先回りをして、あのいちじく桑の木にのぼって見ればいいんだ、というわけです。税務署長で金持ちのザアカイが人目もはばからずそんな行動に出たのです。
イエスさまは、その場所に来ると、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」とイエスさまの方から声をかけました。
イエスさまのこの呼びかけの言葉は、「わたしはあなたの家に泊まらなければならない」と訳すべき言葉でもあります。
ですから、この言葉には、10節で、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と書かれてあるように、父なる神が、ザアカイのように失われている人を捜し出して救うためにイエスさまをこの世にお遣わしになった、その父なる神からの使命を果たさなければならないという強いご意志がここに表されています。
また、ザアカイのような人を救わないわけにはいかない、という大きな愛がここに働いているのであります。
イエスさまはザアカイに、「わたしは、きょう、あなたの家に泊まらなければならない」と呼びかけましたが、ザアカイが何かよいことをしている人でなくても、イエスさまを信じようとしていなくても、イエスさまはザアカイの孤独を知り、心の空白を知っておられ、彼の犯している罪を知っておられ、彼を愛し、彼を救おうとされたのです。
税金の不当な取り立てをしてまで、ただ金持ちになろういとしている人間であっても、そうであればこそ、イエスさまは、彼を愛し、彼がほんとうにあるべき人間として生まれ変わって生きる人になるために、彼の家に泊まらなければならないと、呼びかけたのです。
イエスさまはザアカイに、「あなたの家に泊まることにしているから」と言って神から離れて生きていたザアカイに父なる神の真実の愛を伝え、彼を生まれ変わらせました。
当時、間違って取り立てた金があったら、その取り立てた金に20%を足して返せばよいという規定があったそうですが、ザアカイはその規定をはるかに超えて、4倍にしてつぐないをしました。
しかもかつては徴税人の頭として肩をいからせて取り立てた人々の所を一軒一軒回っておわびして4倍もの金を返して回ることは、イエスさまの真実な愛に触れて悔い改め、生まれ変わることなしには到底できない振る舞いです。
ヨハネ第一4章10節に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」と記されていますが、ザアカイの出来事は、まさにこのみ言葉通りの出来事であります。
確かに変えられたのはザアカイでしたが、イエスさまは、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われたことです。
イエスさまの愛によって確かに救われた人が起こされた時には、救いはその家のすべての人に及ぶことがここで示されています。まさに使徒行伝16章31節に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と書かれてある通りです。
家族全員が救われるには至っていない家庭の方が、私たちの社会では多い、と言ってよいでしょう。しかし私たちにはザアカイの出来事を通しても希望が与えられています。
「今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい」、とイエスさまは私たちにも呼びかけ、私たちの家にも泊まらなければならないという使命をもってわたしたちの所にも来てくださっているお方です。
私たちも喜んで心を開いてイエスさまに私たちの家に泊まっていただこううではありませんか。
この箇所では、ザアカイの行動が動的に生き生きと書き留めている言葉が重なっています。「走って先回りし」(4節)、「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(6節)、「ザアカイは立ち上がって、主に言った」(8節)というように!
主イエスの、打てば響くような愛がザアカイの心を打ち、そのイエスの愛を全身全霊をもって受け止め、その愛に立ち上がって生きていくザアカイの新しい姿をルカは、私たちに伝えてくれています。
イエスはその夜、ザアカイの家に泊まった、と書かれてあります。泊まってどんな言葉を交わされたのか、何を語られたのか、食事をしながら談笑されたのか、何も書かれてありません。
確かなことは、イエスが彼の家に入って泊まり、ザアカイが喜んでイエスを迎え入れたとき、イエスによる救いはザアカイ個人だけではなく、「彼の家に救いが起こった。」というのです。ザアカイの家族構成は分かりませんが、彼の家の人たちにまで救いが起こった、とイエスはおっしゃたのです。
イエスによって生まれ変わったザアカイ、彼が立ち上がってイエスに向かって表明した証しが相伴って彼の家に救いが及んだのであります。
キリストの、御からだである教会の集いにつらなり、家でも日々、み言葉に触れ、祈り、イエスさまに泊まっていただくとき、「今日、救いがこの家を訪れた」とイエスさまがおっしゃる出来事が私たちにも起こることを私たちは示されているのです。
このことは、今、家族の中から一人だけでここに来ておられる人の家にも起こる可能性が示されている出来事です。私たちの教会でもこのようなあり方で、親子、夫婦、家族が救われた方々が少なくありません。
さて、ザアカイのことに集中してお話ししてきましたが、7節で、「これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男の所に行って宿をとった」とイエスを非難した人々がいました。私たちはこのような人間でもあり、ザアカイでもあるのではないでしょうか。
私たちは、人を裁く人も裁かれる人も、神の前には等しく罪を犯す者であり、イエスの十字架の愛によって全く同じように罪を贖われ、救われてこそ生きることが出来る人間同士なのであります。
私たちは、イエスの愛によって、神を愛し、互いに愛し合う交わりに生きるように導かれている者として、キリストの教会を建てあげ、キリストによる救いを世の人々に証しし、伝えていく使命を受けて新しく生かされて行く群れになっていくのであります。
イエスさまによって私たちの周囲に、イエスさまによる救いの祝福が広がるように、私たちも互いにもう一人の新しいザアカイになってキリストの愛と救いの恵みを感謝と喜びをもって伝えて群れとなって行けるように祈り求めて行きたいと願ってやみません。
〔祈り〕
神さま、あなたは救い主イエスさまを世にお遣わしになり、金銭や物にとらわれ、主イエスさまから離れて罪の内に生きる私たち一人一人に目をとめ、「ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかけてくださいます。どうか一人一人が、また、すべての人がイエスさまに出会い、その真実な愛によって変えられ、神を愛し、そして互いに愛し合う家庭、教会、世界へと導かれていくことができますように。主よ、どうか私たちの内に宿り、私たちを新しく生きる者として救ってください。
主の御名によって アーメン。