エレミヤ書31章23~34節
2015年2月1日主日礼拝
1月11日の主日礼拝では、エレミヤ書18章1〜17節から「私たちは神の御手の中にある」と題して御言葉を取次がせていただきました。18章では、神は真の陶器師に譬えられ、人間は陶器師の手の中にある粘土に譬えられていました。陶器師は不細工になってしまった粘土は捨てて、良い作品を作り変えていく。神はイスラエルの民を、ご自身の御心に添う者とされようとしておられたのに、イスラエルの王や民は神に背いて滅びに至る道をたどってしまいました。しかし、神は預言者エレミヤを通して彼らを作り変えようとされたことを学びました。
今、イラク北部とヨルダンに接する地域で過激派組織「イスラム国」は、日本人ジャーナリスト二人を人質にとってひとりを殺害し、もう一人は先の見えない危機的状況にさらして世界の国々を巻き込むという事件が起こっています。あの地域は、チグリス、ユーフラテス川の上流地帯で、創世記2章では水と緑に恵まれた肥沃な地帯で、神はそこにエデンの園を造られたことを思うと、私たちはさらに悲壮な思いに駆り立てられます。
人の命、人格を無残に奪い取るテロや戦争の根底に共通していることは、神を恐れず、神を崇めることなく、自分を神とし、その主張を絶対化する人間の罪深さにあります。
エレミヤ書36章には南王国ユダの王であったヨヤキムが犯した大きな罪が生々しく書かれてあります。神は預言者エレミヤにユダの王たちに対する厳しい戒めを告げ、エレミヤは、宮廷の書記官であったバルクに、神から告げられたことを書き記させ、その文書を王や民の前で読み上げさせました。
ところが、ユヤキム王は告げられた神のみ言葉を受け入れないばかりか、読まれた文書を切り裂いて焼き捨てるという大きな罪を犯してしまいました。そのような危機的状況の中にあっても、神はエレミヤに協力者バルクを付けて、焼かれた御言葉をなおも書き記させたことが書かれてあります。
エレミヤもバルクもまさに命をかけて神のみ言葉に仕えたのです。私たちが今、こうして聖書を手にして自由に読むことが出来る背景には、旧約聖書の時代からこのように神への信仰に生きた人々の働きがあったことを覚えておかなければなりません。
きょう拝読したエレミヤ書31章の中で、特に31~34節の言葉はエレミヤ書の中でも多くの人々が最も親しんでいるところではないかと言われています。
今日は礼拝の中で、主の晩餐を守りますが、主の晩餐式でブドウ酒を分かち合う時に、マルコ14章24節で「イエスはまた言われた、これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」との御言葉を読みます。
主イエス様はこの言葉を、ご自分の十字架の死がエレミヤによって預言された新しい契約、新しい救いが成就される出来事として弟子たちに語られたのです。
ある人はエレミヤ書31章のこの個所は旧約聖書の山頂の一つであると言っていますが、高い山がその山頂から広い麓の端から端まで広がっているように、私たちはエレミヤ書を通しても、神の愛がどんなに高く、広く、そして深く私たちを包み、また世界を包んでいるかということを知らされているのです。
エレミヤが預言者として召された紀元前626年に10年程先だって編纂された申命記7章には、神はイスラエルの民をご自分の宝の民として選び、彼らに律法を授け、彼らを神の民として導き、彼らを通して神の救いの計画を世に来らせるために契約を立てられ たことが書かれてあります。
申命記の7章を見ると、神がイスラエルをお選びになったのは、彼らがどの国民よりも大いなる民であり、立派であったからではなく、むしろ、多くの民の中で、最もとるに足りないような小さく、弱い民であったことが記されています。
また出エジプト記19章~20章には、イスラエルの民がエジプトの地で、奴隷の苦しみにさらされていたとき、神はモーセを遣わして彼らを救い出し、荒れ野の旅を通して彼らを導き、訓練し、シナイ山で彼らに律法の要になる十戒を与え、彼らと契約を結ばれたことが書かれています。
その契約は彼らがもし律法に従い、それらを守り行うならば、神は彼らに幾千代にも及ぶ慈しみを与える。しかし、律法に従わないならば神の裁きが彼らの上に下されるというものでした。
神に選ばれたイスラエルの民の歴史を見ると、彼らは繰り返し、繰り返し、神から与えられた律法を踏みにじり、まことの神から離れて、神ならぬ神々のもとに走り、傲慢な生き方に陥り、また欲求充足に陥りました。
イスラエルの民は、紀元前922年には北イスラエルと南ユダ王国の二つに分裂し、偶像信仰への堕落と戦争を繰り返しました。
そしてBC722年には北王国イスラエルは滅亡し、多くの民が捕虜としてアッシリアに連れ去られました。
エレミヤはBC626年に20才くらいで預言者として召されました。
彼は神にそむく南王国の王たちに捕らえられたり、命を奪われるような危機にさらされながら、神の言葉を語り続けました。
しかし預言者の言葉を聞き入れない王たちのゆえに、南王国ユダもついに滅ぼされました。
イスラエルの民の信仰の都であり、より所であったエルサレムの町も神殿も破壊され、王たちも捕らえられ、貧しい一部の民を除いて多くの民はエルサレムから追放されたり、バビロンに捕虜として連れ去られたりしました。
エレミヤは悲しみの預言者であると言われますが、彼は、神にそむく王とその民の上に下される神の裁きの厳しさをいやというほど知らされた人であり、苦しみと絶望にさらされた民の中に身をおきながら、神に仕える痛みを味わい知らされた預言者でした。
しかしエレミヤは、神の民の絶望的な悲劇と苦しみの中から、神は真実な方であり、かつてイスラエルの民と交わされた契約をたとえ彼らが破ったとしても、神ご自身はその契約を必ず成就されるという救いの希望を告げました。
エレミヤ記31章23~26節には、先程読みましたように、イスラエルとユダ全土にわたって、救いが訪れ、彼らの国土、生活が祝福に包まれて回復されるという希望の音信が告げられています。
31~34節には、イスラエルの民が、かつてシナイ山で律法を与えられ、神との契約にあずかったにもかかわらず、神に背き、神の契約を破ってしまったことが書かれていますが、33節で神はエレミヤを通してイスラエルの民に語りかけます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と。
律法による古い契約は法律の条文のように文字で書き記され、「あなたは~しなさい」「あなたは~してはならない」という命令や禁止で貫かれていました。
確かに律法は神に聞き従って生きる私たちの生き方を示しています。しかしイスラエルの民はモーセ以後の640年余に渡って律法に背いて罪を犯し、また律法を守り抜くことが出来ない弱さを知らされたのでした。
まさに救われようのないイスラエルの民に対して、エレミヤは、神が新しい契約を立てて下さる日が来る。その時には、神は律法を彼らのうちに置き、その心に記すことによって救いに預からせて下さるという希望を語ったのです。
言い換えれば神が私たちのうちに生きて下さることによって与えられる救いであり、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙2章20節によれば、「生きているのは、もはや、わたしではありません。キリストが、わたしの内におられるのです。」というほかはない救いの恵みに預かることです。
私たちが、人を愛する という場合、「私はあなたを愛しています」と言っても、それで愛が伝わるとは言えません。けれども確かに、「わたしがあなたを愛している」という事実があれば、愛は伝わるのです。
そむいた者をなおも愛し、31章34節の最後に「わたしは、彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」と言われる愛をもって私たちを愛してくださる方はただ神のみです。
今や私たちは、罪のゆえに、神に裁かれ、死と滅びにさらされなければならない私たちの悲惨を、イエス様が背負って下さり、私たちに代わって十字架上に肉を裂かれ、血を流して死なれ、私たちの罪を贖ってくださったことを知らされています。
言葉は心の結晶であり、言葉は心のあらわれとなる、と言われます。聖書の言葉は神の愛の言葉であり、イエス・キリストの愛そのものが私たちに伝えられている言葉です。
神は聖書のみ言葉によって私たちの心にキリストの愛を記してくださるのです。私たちはキリストの愛によってこそ、救われ、生かされるのです。
エレミヤによって告げられた希望の言葉が、私たちの心に記され、世の人々の心に記されるように、キリストの福音を証しする群れとなることを祈り求めましょう。
「主の晩餐」は目で見る説教であるとも言われます。互いにパンを食べ、杯をいただきながら、十字架にかけられたままの主イエス・キリストを仰ぎ見る信仰を新たにされるように、主のお導きを求めたいと存じます。
〔祈り〕
主なる神様、主の御言葉を聞く時、主の晩餐にあずかり、また見守る時、主イエス様の十字架の死と復活の出来事を互いの心の内に刻み付け、神の愛を感謝し、喜び、主イエスによる救いの御業を全ての人と分かち合えるように導いてください。主の御名によって、アーメン