マタイによる福音書5章1~12節
2015年10月4日 主日礼拝説教
マタイによる福音書5章~7章には、多くの群衆が集まって来るのを見てガリラヤの山に登り、歴史を貫いて世界中の多くの人々に語られた山上の説教が記されています。本日拝読した、5章3〜12節は、6章9〜13節に記されている「主の祈りに対応するような祈りとして暗唱している人も多くおられるのではないでしょうか。
この教えは、原文に近い訳し方をしている岩波版の聖書では、3節から11節まで「幸いだ、心の貧しい者たち。天の王国は、その彼らのものである。」というように、始めに「幸いだ」という言葉が告げられています。英語訳も、共通した訳し方をしていますが、口語訳聖書も新共同訳聖書も日本語として通りやすく意訳されています。
11~12節は、8番目の祝福「義のために迫害されている人々への祝福」に続いていますが、11節に「幸いである。」と記されているので、主イエスがここで教えられたのは「9つの幸いの教え」と言われています。
ここに示されている幸いは、一般の幸福とは全く異なっているのですが、ボンヘッファー(1945年4月9日ナチスの強制収容所で処刑された世界有数の神学者の一人)という人は、この9福の教えは、「最高度の幸福と幸福感」を明らかにしているものであると語っています。
一般的にこの世で「幸福である」とされることは、主イエスがここで教えられたこととは正反対ではないでしょうか。
この世的な幸福はしばしば見せかけとなり、時と場合によっては、変わったり、消滅したり、ただ、苦しみや悲惨さを嘆くことで終わることがあります。
主イエスが、ここで教えられた幸福は、人々がほんとうに救われて生きること、ほんとうに祝福される人生を生きること、それによって神の国の祝福が地にもたらされるようになる幸福、永遠に変わることのない幸福であります。
マタイ5章2節には、「イエスは口を開き、教えられた」とありますが、集まって来た弟子たちに対して、その背後にいる大勢の群衆に対して、主イエスは、はっきりと語られたということです。
ルカ6章20節には「イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた。」と記されていますが、主イエスは、前に集まっている弟子たちに対してはっきりっと眼差しを向けて語られたことも私たちは心に留めてこの9福の教えを読みたいと思います。
マタイ、ルカ福音書に書きとめられているこのような言葉は、この9福の教えの言葉をほんとうに聞いて、生きてほしいというイエスの御心が明白に表されていることを私たちは示されます。
ですから、私たちもまた、主イエスのそのような思いをしっかりと受けとめながらここで教えられている主イエスの至福の教えに聞き従っていきたいと思います。
3節に「心の貧しい人たちは、幸いである。」と記されていますが、ルカ6章20節では、「あなたがた貧しい人たちはさいわいである。」と記され、マタイの「心の貧しい」という教えと違うように思われます。
しかし、ルカの場合は同じ教えの中で、すぐ後の24節で、「富んでいるあなたがたは、不幸である」、「今、満腹している人々、あなた方は、不幸である」と記されているので、真の幸いを語ることにおいてマタイもルカも共通していると言えます。
富と飽食などを幸福として追い求め、神の御言葉を聞く耳を持たない社会状況の中で、人の生き方がどうなっているか、社会がどうなっているか、現代に生きる人々の状況を考えて見なければなりません。
「心が貧しい人」ということは、傲慢、自己過信、うぬぼれ、優越感などを持つことなく、いや、そんなことは到底出来ないほどに神への信仰に生きるゆえに圧迫されたり、迫害されたりして、悩まされている人たちのことです。
このような状況にさらされていて、神を求めずにはいられない、神の助けと導きを求めないではいられない。そのような人たちは幸いなのだ、そのような人たちこそ、神の国の祝福を受けることが出来ると主イエスは教えてくださったのです。
私たちはそのような心の貧しさを知らないままに過ごしていて、神を求めなければならないことを忘れさっていることはないでしょうか。
4節に「悲しむ人々は幸いである。」と、ありますが、この場合の悲しみは「もの悲しいというような悲しみ」ではなく、「嘆き悲しむ悲しみ」です。
岩波版聖書では、「さいわいだ、悲嘆にくれる者たち、彼らこそ、慰められるであろう」と訳されています。
声をあげて泣き叫ぶほどの悲しみを悲しむ人、自分の罪、醜さにおののき、悲しむ人の悲しみ、嘆きです。
しかしどうでしょうか、罪に泣くということは私たちにとってあまりピンとこないことはないでしょうか。
主イエスは自分をよしとして、自らのうちに罪を思わない律法主義者、パリサイ人に対して、5章21節以下では、「殺すな」ということは、兄弟に対して、「腹をたてる者」、「ばか」と言う者と同様に火の地獄に投げ込まれるであろう、と警告されました。
神の言葉をまともに聞くとき、パリサイ人や律法学者たちだけではなく、私たちも自らのうちに罪を覚えないわけにはいかないのではないでしょうか。
またイエスの十字架を見上げて私たちは何を感じるでしょうか。
讃美歌第2編177「あなたも見ていたのか」(黒人霊歌)という賛美歌があります。4節ありますが、1節目だけを読みます。
「あなたも見ていたのか/主が木にあげられるのを。/ああ、いま思い出すと、/深い、深い 罪に/わたしはふるえてくる」と歌われています。
2、3、4節それぞれの最後の言葉は、「手足がふるえてくる」「からだがふるえてくる」「こころがふるえてくる」と歌われています。
私たちは、「主の晩餐」で、パンを受け取り、杯を受け取るとき、どのような思いで受け取るでしょうか。
わたしの罪のためにイエスが十字架上に尊い肉を引き裂かれ、血を流されたそのことを我が身に覚えて自分の罪を悲しむ人は幸いであり、神からの慰めを受けることが出来る! と言われていることに等しいことを、主イエスは教えられたのです。
5節の「柔和な人々」、「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」の意味はつながっています。自分の弱さ、無力さを認め、自分の力では神から問われる問題を解決することは出来ないことを認めて低い心、砕かれた心を持つ人々、このような人々は幸いであり、地を受け継ぐ、と教えられているのです。
地をつぐとは神が支配される世界、神の国をつぐことです。このような人は、今は小さく、弱い立場におかれるかもしれない。しかし神はこのように生きる人々に、地を受け継がせるのです。
強力な軍事力の傘のもとに立とうとするような人々はどのような防衛ガイドラインを引いたとしても、それによって地を受け継ぐことにはならないのです。
心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人こそ、神の国を受け継ぎ、まことの幸いを与えられ、このような幸いを与えられる人が増し加えられる彼方に、神の御国がもたらされるのです。
6節には、「義に飢え渇く人々は、幸いである。」と教えられています。独裁的な人物によく見られることですが、何かのイデオロギーや自分の主義主張に勇み立つのではなく、自分の弱さ、罪深さを深く覚え、自分自身が神の赦しの愛の中に生きることを渇き求める者となる時、人は神の恵と祝福に、飽き足りるように満たされると示されています。
7節には「憐れみ深い人々に与えられる」幸いが教えられています。「憐れみ深い」とは。単に同情したり、人を気の毒に思ったりすることではなく、人の悲しみを共に悲しみ、人の痛みを共に自分の痛みとしていくことです。
8節は、「心の清い人々」に与えられる幸いです。「心の清さ」ということは、心の内側からの清さです。当時、ユダヤのいわゆる立派な指導者とされていた律法学者たちは、律法の細かな解釈規程にまでこだわっていたファリサイ派の人々と共に、イエスや弟子たちがそのような律法を守らないことを非難していました。
しかし、主イエスは、彼らの心の内側は強欲と放縦でいっぱいになっているゆえに、彼らの心の内側は偽善と不法に満ちていると厳しく批判されました。
詩編24編4〜5節には、「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し 救いの神は恵みをお与えになる。」と示されています。
完全無欠な聖人はいません。「心の清い人」とは、他の何かに目がくらみ、ふたまたをかけることなく、神を一心に慕い求めて生かされるようになっていく人のことです。
9節には、「平和を実現する人々は幸いである。」と教えられています。平和を実現するということは、平和を愛する、平和について考えるだけで終わるのではなく、すべての人の全存在が主の平安に満たされ、包まれるように、どんなに小さなことでも最善の役割を果たすことです。
敵対する者のために主イエスが十字架上の苦しみの中で、「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)と祈られたことを、心に深く覚えながら、平和を実現するために、主イエスが望んでおられると示されることを担い合っていくことです。
10~12節は、社会正義と公平がこの世のただなかで実現されるために、ののしられても、迫害されても、むしろ、キリストに従うゆえに、それを喜びとしていくような生涯を生きる道が示されています。
人は、富、健康、成功、実力を持つこと等を幸いになることと思います。しかし、これらのことを第一としていく時、人の心はむしろ蝕まれ、神から遠く離れ、滅びに陥っていくことを、主イエスは見つめておられるのです。
主イエスは、政治力、軍事力、経済力をもって、当時のユダヤ人たちの上に君臨していたローマ帝国の支配者たちに対して、「あなたがたは幸いである。」とは言いませんでした。巨大なローマの支配の下で、何も持つことの出来ない状況にさらされながら、そうであればこそ、神の義と愛のご支配を慕い求める人々の上に、神の御国に連なる祝福と最後の勝利が与えられることを、はっきりと言い切って教えられました。
現代の大多数の人々の生き方がどんなに巨大な流れであり、その大きな流れが世界を治めるように見えていても、主イエスは、今、御許に近づき、主の御言葉に、耳を傾け、心を開いて聴き従っていく人々に神の御国の永遠の祝福は差し向けられ、神の御国はあなた方のものであると約束されるのです。
主の晩餐を守りながら、十字架上に貴い命を与え、復活をもって永遠の命の主となられた真の救い主イエス・キリストを主と信じて仰ぎながら、主イエスが私たちの内に生きて下さるように祈りをもって参与させていただきましょう。
〔祈り〕
主イエスがご自身の命をかけて、私たちに語りかけてくださった真の幸に至る教えをお聞きしました。主イエスが私たちに注がれる真の祝福に生きる道を共に歩み、また、主イエスの救いへの招きを一人でも多くの方々に伝えてやまない群れとなっていくように私たちをお導きください。
今、様々な困難、痛み、悲しみに直面している友に、主にある慰め、平安、癒しを満たしてください。今から守る主の晩餐において、私たちをキリストの愛の絆で結び合わせてください。主の御名によって、アーメン