この方こそわたしたちの神

イザヤ書25章1~10節a

2016年7月17日主日礼拝

「この方こそ、わたしたちの神」であると、イザヤ25章9節で告げられている言葉は、聖書により、イスラエルの民を通して歴史を貫き、全世界に告げ知らされてきた大切なメッセージであります。
 イザヤ書は第1章から66章までありますが、エレミヤ、エゼキエル書と合わせて三大預言書であり、イザヤ書は新約聖書に最も多く引用されている預言書として重視されています。

 イザヤは、紀元前8世紀の中頃〈前747年〉からエルサレムで活躍した預言者で、南王国ユダの外交、内政の危機に際して、王に近い立場に立って預言しました。預言者エレミヤはイザヤより約120年後に南王国ユダの預言者として召され、王国滅亡に関って、神に仕え、預言者エゼキエルは、イザヤより154年ほど後の時代に南王国ユダの滅亡と、イスラエルの民のバビロン捕囚に関り、破壊されたエルサレム神殿の再建の希望などについて預言しました。

 これらの預言者たちが活躍した時代は、200年余に及びますが、西は地中海沿岸から東はパレスチナ、アッシリア(現在のイスラエルからイラク)に広がり、南は地中海沿いのペリシテからエジプトに至る大国、北は支配者としての王が戦争の結果によって次々に変ったアッシリア、バビロン、新バビロン、ペルシャ等の大国に脅かされ、侵略された時代でありました。

 従ってそのような時代には当然つきまとう王達の堕落、政治的、宗教的腐敗が起こり、戦争に巻き込まれて多くの死傷者が出たり、特に民衆の中で弱い立場に立たされる高齢者、子ども、女性たちが悲惨な犠牲者となる出来事が繰り返されました。

 預言書には、そのような時代の中で預言者たちによって王や民衆に告げられた、神からの警告、戒めの言葉が記され、また、暗黒の時代であればこそ、神によるまことの平和と祝福に満たされる慰めや希望の言葉が告げ知らされています。

 イザヤ書に関しては種々研究が進められ、時代の背景や文体の違い等から、今では第1章から66章まで大きく三つに区分されるのではないかと考えられています。
 第一部は1章~39章で、直接イザヤによって預言された内容が書き記され、第二部は40章~55章までで、第二イザヤと呼ばれている無名の預言者によって預言された内容、第三部は56章から66章まで第二イザヤの弟子で、仮に第三イザヤと称される預言者によって告げられた内容から成り立っています。

 しかし、第二イザヤも第三イザヤも、預言者イザヤの信仰に影響され、イザヤの信仰を受け継いでいる預言者たちによって告げ知らされた事柄が含まれていると見られています。
 イザヤ書24章から27章の部分は「イザヤの黙示」と言われている部分です。
「黙示」とは、新約聖書のヨハネ黙示録にある「黙示」です。その意味を平たく考えるならば、人には測り知ることの出も含まれていると来ないような神のご計画や尊い救いのみ業を、表に出してはっきりと言えないような厳しい社会状況があるので、象徴的な言葉を使って告げ知らせることであり、そこには終末的な意味も受けとめられています。

 25章の預言の言葉の背後には、イスラエルを脅かし、イスラエルの北に接する大国で、イスラエルを侵略しようとしているアッシリアの圧力がのしかかっています。2節に「都」と書かれていますが、これはアッシリアの次の支配者となったバビロンを指し、預言者イザヤがバビロンの滅びを先取りして語ったのではないかと見られています。

 イザヤ書25章には、神の驚くべき救いのみ業を讃美する歌が記されています。1、2節では「あなた」と呼ばれる神と「わたし」との関係が明らかにされ、イスラエルの神ヤーウエを「あなた」と呼び、「あなたが主」であり、「わたしの神」であるという、神との密接な関りを語り、その神は「遠い昔からの揺ぎない真実をもって救いのみ業を実行される。」ことが歌い告げられています。

 2節に、「あなたは町を石塚とし」とありますが、「石塚」という言葉は国語大辞典にも出てこない言葉で、「塚」というのは、土や石で盛りたてた小さな塚で、ほこら(祠)のようなものではないかと思われますが、岩波版の聖書は新共同訳より分かりやすく、「あなたは町を石ころの山に」され、言葉をかさねるようにして、「都を廃墟にされました」と訳しています。

 さらに2節の後半では、「異邦人の館(やかた)を都から取り去られた。」とありますが、館(やかた)は王の宮殿のことです。そして彼らの都は永久に建て直されることはないであろう。」とイスラエルを陥れようとする諸外国、すなわち神に背く王とその國を、神は滅ぼすであろうと告げ知らせました。3節には「それゆえ、強い民も暴虐な国々の都でも人々は神を恐れるようになる。」と告げられています。

 4、5節では「豪雨」とか、「地の暑さ」と言う言葉で、神は、暴虐な王たちや国々の横暴な行為から、小さな国で弱い立場にさらされている人々を、助け、守ってくださることが強調されています。これらの御言葉によって、慰めと励ましに満ちた神の救いのみ業が示されています。

 6節以下には「主はこの山で」と云う言葉が2回出てきますが、24章23節の「シオンの山、エルサレム」に続くもので、イスラエルの民の信仰の中心的な場となっているシオンの山で、主なる神は良い肉と古い酒と脂肪たっぷりのご馳走を以って盛大な祝宴に人々を招き、死を永久に滅ぼし、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の愛する民が受けた恥を地からぬぐい去ってくださることが示されています。

 8節の最後には、これは単に一預言者の言葉ではなく主の語られたことである、と主なる神による救いの確かさが告げられています。

 新約聖書の最後にあるヨハネ黙示録は一世紀末のローマ皇帝の大迫害の下に皇帝礼拝を強要されたアジア州の諸教会宛に書き送られた手紙ですが、ヨハネ黙示録7章17節には、「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」と書かれています。

 また、黙示録21章3~4節には、神の救いのみ業が神の小羊イエスによって成就され、新しい天と新しい地が実現されるとき、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら、人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみもなく、嘆きも労苦もない~」と告げられています。イザヤの預言は、ヨハネの黙示録に記されているように、神の小羊御子イエスによって成就されたのです。

 イザヤ25章の8節には、神が「死を永久に滅ぼしてくださる」と書かれていますが、このみ言葉は、神の愛の極まるところ、そこに、死を突き抜けていのちが与えられることを指し示し、キリストの十字架の死と復活はまさに人に対する神の至上の愛をあざやかに表す出来事として、イザヤの預言につながっています。

 今、高齢化社会が急速に進み、言い方を代えれば長寿社会が広がっていることになりますが、このことは、政治的、社会的に大きな問題であるとともに、病や歩行の困難、介護する立場に立つ人、それを受ける人双方の困難、また家族関係の問題や葛藤が深まり、人知れず涙する人々の心の痛みが伝わってきます。

 今、この時代に、預言者イザヤによって告げられた神のみ言葉が一人一人に知らされ、覚えられ、まさに主のみ言葉がいのちの言葉、希望の言葉となるように互いに祈り求めていかなければなりません。

 25章6節から9節で示されているもう一つの大切な課題があります。「あなたは、わたしの神」と告白されていた神は、「あなたはすべての民の神」と告白され、神の救いのみ業は世界の民に及ぶということが示されています。

 10節後半以下には、死海の東南部に広がるモアブの滅亡のことが書かれています。このことは、神は全世界の国々を裁き、また救われる神であられることが、預言者イザヤによって告げられているということです。

 2010年の10月に、アフリカ中部のやや南寄りにあるコンゴ内戦で、隣国のルワンダが武力介入して数万人の人が虐殺され、18万人余の難民が行く先々でいのちを奪われ、多くの女性や子どもたちが暴力の犠牲になっている実態があることを、国連の報告書が報じていました。当時のルワンダに限らず、世界の各地でこのような悲惨な出来事が今なお、繰り広げられています。

 今年5月、イランのバグダッドの商店街で自爆テロによって、63人死亡、85人が負傷したテロ事件がありました。また、7月1日には、バングラデシュの首都ダッカのレストランに武装集団が侵入し、2日朝には、治安部隊との銃撃戦になり、国際協力事業団JIKAに関係していた日本人7人を含む20人の尊い命が無残に奪われました。

 人々の悲しみ、苦痛、絶望的な涙が流れて止まらないような事態が、世界各地で相次いで起こっています。日本国内においても信じがたいような悲惨な事件が相次いで起こっています。
 イザヤ書25章に見られるような預言者による黙示の言葉、終末に関る預言の言葉が世界の隅々に奥深く伝えられなければならないのではないでしょうか。
 このことは私たちの身辺における伝道から始まって、波紋が広がるように地域から世界の救いにつながっていくことを受け止め合い、主の救いのみ業に仕えていかなければならないこととして示されます。

 来る24日の主日には、「JOYJOY夏の子ども会」が開催されます。8月21日の主日には「平和礼拝」、10月23日の主日にはゲストを招いて、「特別音楽礼拝」が予定されています。これらの主にあるイベントを紡ぎ合わせていくのは、今年度の年間主題「共に支え、主に仕える」 年間聖句「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙12章15節)の御言葉を覚えながらなされる日常の福音宣教の働きであり、主にある交わりと奉仕を担い合っていくことにあります。

 私たちに先立って下さる主のお導きと支えを祈り求めながら、主の招きと派遣に応え合っていきましょう。

〔祈り〕
父なる神さま、悲しみ、苦痛、絶望的な涙が止まらないような事態が、神の御こころに添わない人間の罪深さに根ざして、この世に広がっています。しかし、あなたはこの世に、罪を贖い、すべての人に赦しの愛を以って救いを得させる小羊として御子イエスを送ってくださいました。「見よ、この方こそわたしたちの神」と告白し、神への感謝、讃美に生きる道へと、一人一人、そしてすべての人を導いてください。
主イエスの御名によって、アーメン