ヘブライ人への手紙11章32~12章2節
2017年3月26日 主日礼拝説教
ヘブライ人への手紙は、パウロによる手紙やペテロ、ヤコブなどによる手紙とは違って一種独特な文書として受けとめられています。殆どの手紙には最初に差出人と受取り人、または宛先の教会の名前が記され、初めと終りに挨拶の言葉が交わされていますが、ヘブライ人への手紙には終りの部分に挨拶が書き添えられているだけです。
13章22節に「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」と書かれていることから、本書は手紙というよりも奨励ないし説教として書かれた文書であると見られています。
著者についてはかつて使徒パウロによって書かれたという説もありますが確定されてはいません。書かれた年代も紀元60年から100年ぐらいにまで及んで幅のある推測がなされています。
手紙の送り先については13章24節に「イタリヤ出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」と記されているので、この手紙はローマにいるユダヤ人クリスチャンや異邦人クリスチャンたちの教会宛に書かれたのではないかと推測されています。
本書の特長としては、第一章から、各章にわたって旧約聖書の律法書、歴史書、預言書、詩編などからの引用が多く見られ、旧約聖書において指し示されていたことが、イエス・キリストにより完全に成就されたことが強調されています。
たとえば11章4節以下では、アベルとカインの物語から始まって、アブラハム、イサク、ヤコブなどの族長、さらにモーセのこと、イスラエルの民のエリコへの入城までのことを辿り返しながら、そこに登場する代表的な信仰者たちのことを書き記し、さらに32節に至って、「これ以上何を話そう」と言葉をつないで、士師、預言者、王たちのことに言及しています。
ここでは言わば、旧約聖書の中の重要な歴史的出来事を、ヘブライ人への手紙の限られた紙面の中で総ざらいするようにダイジェストしながら語り、どのような時代、どのような社会状況にあっても、すべての人の真の救い主、イエス・キリストを信じる信仰をつらぬき通すことの重要性が強調されています。
32節には、「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また、預言者たち」と書かれています。
しかし、11章の初めから幾度もキーワードとして繰り返されている言葉は、「信仰によって」という言葉であります。32節以下に登場する人々の名前の順序は自由に書かれていますが、肝心なことは彼らによってなされたすべてのことも33節にあるように「信仰によって」ということですべてが語られていることにあります。
カナンの地に導き入れられたイスラエルの民は、モーセの後継者であったヨシュアの死後、諸部族を取りまとめて導く指導者がいなくなり、彼らはカナンの神々を崇拝するようになったために、神は彼らを罰し、敵の手にわたされました。しかし、神はまた、士師(さばきづかさ)と呼ばれ、神から特別な力を与えられたバラクやサムソンやギデオンなどによってイスラエルの民を救いました。
33〜34節には士師たちが信仰によって民を導き、国々を征服したとか、正義を行ったとか、約束されたものを手に入れたとか、獅子の口をふさいだとか、燃え盛る火を消したことなどが書かれています。ここで私たちは、士師たちの力強さや、彼らが民のリ-ダ-として優れた英雄たちであるかのような印象を受けるかもしれません。
しかし、34節には「弱かったのに、強いものとされた」という言葉が書き添えられていることを心に留めておく必要があります。彼らが勝利を与えられたのは決して彼らの力によるのではなく、神の裁き、神の赦し、神の救いのみ業が、イスラエルの民の歴史の中に現わされていることが示されているのです。
このようなことは、私たちが、教会の55年の歩みを振り返ってみるときにも見極めていかなければならない大切なことであります。
35節に、「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました」と書かれていることは、列王記上17章8節以下に記されているサレプタの女主人の息子を、預言者エリアが主に向って「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈り求めて生き返らせたことがここに引き合いに出されていると考えられます。
また、列王記下4章32節以下にあるシュネムの婦人の子どもを預言者エリシャが、主に祈って生き返らせた出来事もここに含められていると思われます。
このような預言者たちにしても敵に追われ、弱さに打ちひしがれ、自分たちが窮地に追いつめられながらも、主なる神に向かって心を注ぎ出して祈り、神の力を受けて、絶望的な状態にさらされた母親たちとその子どもたちを救った出来事が強調されています。
同じ35節の後半に、「他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられた」とあるのは、神による新しい命に生きる希望のゆえに、迫害を甘んじて受ける信仰者の姿が書き記されたものと思われます。
また、37節から38節にかけて、「羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩いた」とあるのは、バアルの預言者たちとの対決に勝利したエリアが、アハブ王と結婚してバアル信仰をイスラエルに持ち込んだイゼベルに追われ、命を狙われて逃避行せざるを得なかった出来事(列王記上18〜19章)に言及したものと見られます。
11章39〜40節のところで、ヘブライ人への手紙では、旧約聖書に書かれてある出来事や信仰によって生きた人々の信仰を認めながらも、「約束されたものを手に入れることはできませんでした。神はわたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、彼らは完全な状態に達し得なかったのです。」とあります。
約束された地とか、子孫とか、種々与えられることのどれかということではなく、39節に書かれている「約束されたもの」とは、いちばん肝心な一つの約束のことです。それは12章に入って明らかにされていきます。イエスによって達成される救いの約束のことであります。
12章の1節には、「こういうわけで」と私たちに示される課題が語り継がれています。それは先ず、「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」と力をこめて語りかけられているように、信仰によって生きた先達(せんだち)たちの信仰にならって神から与えられた信仰生活を一途に歩みぬくことです。
ヘブライ人の手紙が書き送られた背景には、み言葉を聞く耳が鈍く、初歩の教えにとどまっている人たちの問題性(5:11〜6:2)、また、集会を止めてわざわざ好んで罪を犯す人の問題(10:25〜26)、さらに、初めの熱心さが失われ、以前は迫害にさえ耐えていたのに、(10:32〜34)今ではその力が失われ、その魂が弱り果てている(12:3)人の問題などが起こっていました。
このような弱さは私たち自身にも付きまといますし、人は時代の風潮や社会的な影響も受けます。日本のキリスト教の歴史の中でも、キリシタンの迫害や軍国主義、国家主義の圧迫の中で、試練にさらされ、信仰生活から離れたクリスチャンもいました。しかし迫害されることによって、かえって信仰を強められ、信仰を次の世代に引き継ぐ証を貫いてきた人々もいました。
日本では第二次世界大戦後、1940年代後半から60年代の前半にかけて敗戦によって生きる意味や希望を失った多くの人々が教会に大勢集まりました。しかし、1960年代の後半以降、高度経済成長路線を国策としていく中で、物質主義的幸福感が次第に色濃くなり、神なき世俗主義が拡がり、多くの人々がバプテスマを受けながらも3年以内くらいで教会を離れていく人も多くいました。
全国の諸教会が聖書のみ言葉を生涯をかけて学び続ける全年齢層の教会学校を形成することや、青少年、子どもぐるみの礼拝に力を入れるようになった背景には人々の生き方の変化や社会状況の変化が伴っていたのです。
私は1950年11月26日に常盤台教会でイエスを主と信じる信仰に導かれ、バプテスマを授けられ、教会の交わりの中に加えられた時、戦時下に受けた圧迫に耐え抜いて信仰を守り通してきた方々との出会いがありました。如何にもしっかりした方々だという印象と同時に柔和で謙虚な生き方がにじみ出ているような印象を受ける方々と出会いました。
1954年1月に、バプテスト連盟の教会学校部に勤めるようになりましたが、その頃連盟の教会学校部委員をなさっておられた方の中にも戦時下、特高警察によって捕らえられ、「天皇は神か人か」と拷問され、投獄された方もいました。そのような信仰の先輩に温かく迎え入れられ、どんなに励まされたか知れません。
今、私の手許にこの古びた本が一冊ありますが、マルチン・ニ-メラ-という人の『されど神の言は繋(つな)がれてはいない』(新教出版社、1950年)という説教集です。ニ-メラ-は1944年12月から1949年4月まで5年4カ月、南ドイツのミュンヘン北西15キロ、オ-ストリ-に近いダッハウの拘置所に独裁者ナチス・ヒットラ-によってヨーロッパ諸国の人6人と獄中生活を送り、奇跡的に助けられたのですが、処刑されることを覚悟しながら獄中で説教をし続けました。
これは定価120円という本ですが、私が日本バプテスト連盟で働くように導かれた時、常盤台教会初代の松村秀一牧師が私に下さった本です。キリストの福音の確かさに固く立つようにとの思いを込めてこの本を下さったのだと思います。アウシュビッツの捕虜収容所で若い同室の囚人の身代わりとなってガス室に入っていって虐殺されたコルベ神父のことなどと重ね合わせて、イエスを真の救い主と信じて生きる信仰の尊さを教えられて余りある証人たちの生き様から私たちは大きなチャレンジを受けます。皆さんお一人ひとりにも様々なあり方で、キリストの証人として歩まれた人々から主イエスを指し示された出来事があるのではないでしょうか。
ヘブライ人への手紙12章1〜2節には、聖書をたどり返しながら、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また、完成者であるイエスを見つめながら。」と語りかけられています。
神は羊の生贄によってではなく、御子イエスを過酷な十字架の死に渡され、御子の尊い肉をひき裂かれ、血を流され、すべての人の罪を贖って赦しの愛の中に受け容れ、復活をもって永遠の命の主となられ、罪と死の支配から救い出す道を拓いてくださいました。そして御子イエスは「神の玉座の右にお座りになり」、永遠の神の御國を完成させ、世の終わりの日にすべての人を招き入れる約束を与えてくださいました。
すべての人が神のこの大いなる約束に預かるように今、主イエスは命のみ言葉により、御霊の助けによってイエスを主と信じる人々を召し、福音宣教の使命に生きるように招いておられます。私たちの教会の50年以上の歩み、これからの50年の歩みもすべての人を愛し、救わずにはやまない救い主イエスを見つめながら福音宣教の使命にただ一筋に応えていくものでありたいと願ってやみません。
私たちは改めて一人一人の信仰の歩み、また教会の歩をたどり返しながら、感謝、悔い改め、希望を新たにし、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」を見つめながら、さらに次の50年の新しい日々に向って福音宣教の使命に応え合っていきたいと存じます。
〔祈り〕
主なる神さま、歴史を貫き、世界をつらぬいてあなたは真の救い主として御子イエスを世にお遣わしになり、信仰の創始者また、完成者として私たちすべての者を導いてくださることを感謝します。私たちは霊肉において弱さを覚える者ですが、どうか十字架と復活の主イエスを見つめながら、キリストの愛と信実と平安に満たされ、時が良くても悪くても忍耐し希望を抱き福音宣教の使命に一筋に歩むことができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン