使徒言行録 11章1~18節
2017年6月25日 主日礼拝
使徒言行録第2章で私たちは、主イエスによって約束されていた聖霊が、弟子たちと共に一団となって集まっていた120名の人々に降り、弟子たちが、多くの国の言葉で、イエス・キリストの福音を語り、特に弟子たちを代表して語ったペトロの説教を聞いて、その日の内に3000人ほどの人々が、罪を悔い改め、イエスを救い主と信じてバプテスマ受け、エルサレムに最初のキリスト教会が誕生しました。
この出来事については、6月4日の「ペンテコステ」すなわち、「聖霊降臨日」の記念礼拝で、常廣澄子先生も言及されました。
私たちの教会では1961年12月3日お借りしたみどり保育園の教室で最初の主日礼拝をささげました。今年12月には伝道開始満55周年を迎えます。私たちは今日に至るまで、聖霊が様々な人々の内に働いてくださって、主イエスの福音が人々を自分中心の人生から、キリスト中心に生きる新しい人生に導き、キリストの体である教会に連なって生きる交わりにおいて一つとされるように導かれてきたことを示されます。
また、私たちは聖霊の導きの許に、キリストの福音が人間一人一人の間にある差別や様々な垣根を取り除き、人種や国の違いをも越えて全世界に広がり、全世界にキリストの教会が建てあげられ、世界の人々をキリストにあって一つとする方向へと向わせてくださることを示されています。先日、教会の40年史を見たら、私たちの教会には世界の多くの国々から様々なゲストが来てくださって、志村における伝道、教会形成に協力してくださったことが記録されていました。エチオピア、ミャンマー、旧ソビエト、フィリピン、香港、シンガポール、タイ、韓国、台湾、アメリカ等から牧師、宣教師の方々が次々に遣わされてきました。
すべての人を罪と死の支配の中から救い出すために、十字架の死を遂げ、復活された主イエスは弟子たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15、マタイ28:19〜20)とお命じになりました。キリストのその大いなる愛のゆえに私たちの教会にも50年余の歩みが与えられ、私たちもそのような歩みの中で今日こうして共にあるを得ていることを改めて覚えさせられます。
先程、司会者によって拝読していただいた使徒言行録11章にはエルサレム教会で起こった画期的な出来事が書かれています。それはユダヤ人以外のいわゆる異邦人がイエスを主と信じて洗礼(バプテスマ)を受けたことがエルサレムの教会で承認されたという出来事です。
使徒言行録において異邦人伝道の先がけとなったのは、8章26節以下に書かれているように、エルサレム教会で選ばれた今日の執事に当たる七人の奉仕者の中の一人であるフィリポという信徒が迫害のために散らされて行った先でエチオピアの女王つきの役人に出会い、彼を信仰に導き、バプテスマを授けた出来事でした。
このことは、ひとりの信徒が迫害にさらされながらも國を越え、民族を越えて伝道した画期的な出来事であり、聖霊の働きと、キリストの福音による救いの力を知らされる出来事でありました。
さらに、キリストの福音がユダヤ人を越えて異邦人に及び、エルサレム教会との緊張関係の中で伝えられたのは、ペトロによってローマの百人隊長コルネリウスと彼の家族、また友人たちがイエスを主と信じる信仰に導かれた出来事によってでありました。
その詳しい内容は11章と重複している部分がありますが、10章に書かれています。この出来事は、導く人と導かれる人が、ユダヤ人と異邦人でありましたけれども、まさに両者が共に聖霊の導きに謙虚に聴き従い、神の御前にあって、礼を尽くして対応し合い、教会がまた、その出来事を受け容れていくという画期的な出来事として描き出されています。
10章1〜8節によれば、ローマの百人隊長コルネリウスは敬虔な信仰者であったことが紹介されています。
彼は祈りの中で、エルサレムの西の地中海沿いにあるヤッファへ「今、人を送ってペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」(10:5〜6)と、神の御使いから告げられ、二人の召し使いと、信仰心の厚い一人の部下の三人をヤッファへ送りました。
ペトロがエルサレムから来て、革なめしシモンの家に滞在し、ヤッファで伝道したことは、キリストの愛によって、また聖霊の導きによって打ち砕かれ、変えられた使徒ペトロの姿を指し示しています。当時、革なめし職人は動物の死体を扱うこと、それによって悪臭を周囲に放つことなどから、人々に嫌われ、社会的に人々から疎外されて生活せざるを得なかったのです。
2000年5月下旬に、私はアバコ(財団法人キリスト教視聴覚センター)主催の見学旅行でヤッファーの町を見ることが出来ました。
革なめしシモンの家の史跡とされている所は、地中海沿いの地でありますが、階段になっている細い路地を低い所に下りて行って、いかにも他の家を避けているとしか言えないような所にありました。
ペトロが主の御霊に導かれ、シモンの家で異邦人伝道の幻を見たこと、また革なめしシモンがペトロと共に主に用いられたことは、すべての差別や偏見を越えるキリストの福音の普遍的な真理と宣教の姿勢を鮮やかに証明している出来事であり、主の御名を讃えるべき出来事でありました。
また、10章、11章には、聖霊の働きが同時に進行するようになって、ローマの百人隊長コルネリウスに働きかけ、使いの者たちを遣わし、ペトロをカイサリアの自宅に招き,家族や友人たちを集めて、キリストの福音を聞き、多くの人々が聖霊に導かれてバプテスマを受けたことが書かれています(10:44〜48)。
カイサリアはヤッファのすぐ北にある大都市で、当時パレスチナを治めるための大神殿も建てられていました。
しかしそのカイサリアでコルネリウスは「『イタリヤ隊』と呼ばれる部隊の百人隊長で信仰心が厚く、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをなし、絶えず祈っていた」(10:1〜2)と紹介されています。
コルネリウスはユダヤ人にとっては、政治的、軍事的な支配者側の百人隊長ですから、10章20節にあるように、ペトロがカイサリアに来たとき、迎えに出てひれ伏して拝んだこと、そのときペトロが彼を起こして、「お立ちください。わたしもただの人間です。」と促したことは、この世的な人間の権威や上下関係を打ち砕いて神の御前における人と人とのあるべき姿を導く神の御業を表わしていると示されます。
今日私たちはそのような関り合いを神の御前で作り出し、また見ることが出来ているでしょうか。
エルサレム教会には伝統に固執する「割礼派」という派閥があって、主流派に属していたペトロによる異邦人伝道や、ペトロが割礼を受けていない異邦人と一緒に食事をしたりすることを批判し、異邦人を教会の交わりの中に受け容れない人々がいました(11:2〜3)。
割礼は生まれて8日目に男性性器の包皮を切開することで、神とアブラハムとの契約のしるしとなり(創世記17:9〜14)、モーセによって儀式として制定され(レビ12:3)、割礼はイスラエルのしるしとなり、誇りとなり、ユダヤ人は無割礼の者を異邦人として軽蔑しました。ペトロによる異邦人伝道にもそのような困難が伴っていたのです。
11章1〜18節には、ヤッファとカイサリアで起こった出来事をペトロがエルサレム教会で報告した内容が書かれていますので、殆ど10章と重複しています。
更に、11章5〜7節には、ペトロがヤッファの町で祈っていたとき、我を忘れるような幻を見たことが書かれています。
大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天から降りてきてその中に律法で食べることを禁じられている地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っているのをペトロは見ました。
ペトロは天から、「身をおこし、屠って食べなさい」と言う声を聞きましたが、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことはありません。」と答えると、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と再び天から声が返ってきた、と書かれています。
清くない物、汚れた物とは、レビ記の中の食物に関する規定に決められているもので、らくだ、岩狸(いわたぬき)野兎、いのしし、などが列挙されています。レビ記には、イスラエルの民が守るべき生贄(いけにえ)の制度、宗教的な祭りや様々な律法が細かく記されていますが、これらの規定は本来は神に選ばれた民として、周囲の異教の神々や、異教的な風俗、慣習に陥ることなく聖なる民として生きるために与えられた律法であったものです。しかしユダヤ人は次第にその律法にとらわれ、民族的優越感に立って律法を持たない人々を差別するようになりました。
主イエスは安息日に病める人を癒したり(マルコ3:1〜6)、徴税人ザアカイの家の客となったり、サマリアの女と対話を交わし(ヨハネ4章)たりして、人々を律法の支配から解放しました。カイサリアでは、ペトロたちとコルネリウスとその家族、友人たちが共に食事をし、親しい交わりを作り出しました。
ペトロがコルネリウスの家で語ったことは、神が、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を通して信じるすべての人に救いを得させる福音でありました。
ペトロに語りかけられた天からの声は、異邦人たちをユダヤ教の律法主義から解放し、イエス・キリストを主と信じて受け入れる新しい生き方へと導く神のみ言葉でありました。
律法主義に立って、また、割礼の問題をめぐってペトロによってなされた異邦人伝道に批判を持っていた人々に対して、ペトロはエルサレム教会に帰って、神が聖霊によって多くの異邦人を、イエスを救い主と信じ、悔い改めさせ、バプテスマを受けるように導かれた出来事であったことを報告しました。
11章1節に、「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。」とありますが、「受け入れた」という言葉には、「歓迎した」と言う意味もあり、「喜んで受け入れた」ということです。そして、11章18節には、ペトロの報告を聞いた人々は、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した、と記されています。
今日の聖書の個所には、私たちにとってあまりなじみのないレビ記の言葉なども引用されていますが、ペトロが聖霊の導きのもとに、革なめしシモンの協力を得てカイサリアやすぐその南に接するヤッファで異邦人伝道に当たったことには、すべての人々を救いに導き、一つとせずにはおかないキリストの愛がこれらの文面の背後に溢れているのです。
この志村の地に注がれて来た聖霊の御業を検証しながら、これからも主イエスが常に先立ち導いてくださるように祈り求めていきましょう。
〔祈り〕
父なる神様、今、世界には、民族的な差別や偏見、また、貧富の格差や自分たちを第一とする傲慢な覇権主義や、テロ等によって、子どもたちを含む多くの命が奪われるという悲惨が広がっています。
どうか一人でも多くの人々が、主イエス・キリストの十字架の愛に心を打ち砕かれ、御霊のみ業によって一つとされ、主の平安に包まれるようにお導きください。
一人一人が御霊に導かれ、強められながら、人々に主イエス・キリストの福音を伝えていく群れとなることが出来るようにお導きください。
礼拝に直接集うことの出来ない人々、病や困難な事態に直面し、苦闘している人々に、主にある癒しと平安と希望に生きる道が拓かれていきますように。
真の救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン