ただキリストの教会のために

コリントの信徒への手紙二11章7〜15節

2014年2月16日 主日礼拝説教

 今日の週報四面に、マルチン・ルーサー・キング牧師のことを紹介させていただきました。キング牧師は、伝道、牧会、教会形成に努めながら、主イエスが山上の教えの中で、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章14節)と教えられたことと、インドのガンジーの生涯にも深い感銘を受け、非暴力主義抵抗に徹してアメリカにおける人種差別撤廃運動に取り組むようになりました。
 しかし、彼に猛反発する白人たちから迫害され、自宅に爆弾を投げ込まれたりして様々な困難に直面しました。
 1964年にノーベル平和賞を受賞しましたが、1968年4月4日、テネシー州メンフィス市で暴徒に狙撃され、39歳で殉教の死を遂げました。
 週報四面で紹介しましたが、詩編139編の「闇も、昼も、変わることがないという。」御言葉は彼の説教のなかで引用されていた聖句です(参照『汝の敵を愛せよ』)。

 このようなキング牧師の歩とは、時代も状況も違いますが、神の御言葉にひたすら聞き従い、イエス・キリストの福音に固く立って、人々の嘲笑や迫害を受けたり、教会の中で相次いで起こる問題に誠実に対処しながら、伝道、牧会、教会形成にひたすら仕えた使徒パウロのコリントでの働きに於いても上記のような詩編の御言葉を想起させられます。

 きょう拝読したコリント第二の手紙は、コリント第一の手紙とともに、使徒パウロによって書かれたのですが、この二つの手紙には、紀元一世紀の半ば頃から、初代教会と初代のクリスチャンたちが、主イエスの御言葉に聞き従って伝道、牧会、教会形成の労苦に満ちた働きを担った足跡が刻まれています。
 パウロは58年に囚われの身となってローマへ護送されましたが、47年から56年にかけて約9年間に三回の伝道旅行をしました。先ず、シリアに近い地中海のキプロス島から始まって、現在のトルコ西部にあたる小アジア、さらにエーゲ海を渡ってマケドニア、ギリシャの諸都市で伝道しました。

 パウロがコリントで伝道したのは、50年から52年にかけて行われた第二回伝道旅行の時でした。パウロは各地に散らされていたユダヤ人、そして多くの異邦人にイエス・キリストの福音を伝え、小アジア、ギリシャの各地にキリストの教会を建て上げていく伝道を続けました。彼の伝道旅行は行く先々でユダヤ教徒たちから締め出されたり、迫害や投獄などの困難にさらされながらの伝道でありました。
 使徒言行録16章16節以下にはギリシャ北東の中心的な都市フィリピで占い師によって金儲けをしていた女奴隷を解放したために、その主人から訴えられ、ローマの官憲によって鞭打たれ、投獄されるという迫害を受けたことが記されています。

 使徒言行録17章には首都アテネで、おびただしい偶像が祭られていたのをパウロが厳しく批判し、哲学者たちと論じ合い、そして十字架上に死んで復活されたイエス・キリストの福音を語って嘲笑され、相手にされなかったことが記されています。
 さらに使徒言行録18章を見ると、コリントでは、安息日ごとに会堂に入ってユダヤ人やギリシャ人にキリストの福音を取りつぎ、口汚くののしられ、会堂から追い出され、アキラと言うユダヤ人とその妻プリスキラと共に天幕作りをしながら伝道したことが書かれています。
 パウロはコリントでは、1年6カ月間滞在し、弟子のテモテやシラスと協力して、会堂の隣にあったティティオ・ユストという信仰深い信徒の家で伝道し、遂にコリントの教会を設立しました。

 コリントは、ギリシャ半島の南のくびれた部分の地中海側にありましたが、東西、南北を往き来する交通の要所であり、種々の文化のルツボになっていました。繁栄と共に道徳的に腐敗し、コリントは淫蕩(いんとう/自由放縦)の町とも言われていました。
 それだけに、教会にも様々な乱れた生き方をする人々がいました。また、パウロがコリントを去った後に自称預言者たちや自称大使徒と称する人々が入り込んできました。
 彼ら偽預言者たちは11章3節によれば、創世記3章に記されているように「エバが蛇の悪巧みで欺むかれたようにあなた方の思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」と、パウロを嘆かせるような言動で教会を混乱に陥れていたことが分かります。

 コリントの教会は設立されてまだ日も浅く、信徒の家で集会が守られていましたが、外部から入り込んで来た偽預言者たちは、使徒パウロを否定し、彼の語ったことは取るに足りないなどと言いふらして、集会を自分たちのものにしようと企みました。
 コリントの教会には、偽預言者たちが弁舌をふるうパフォーマンスや彼らが語った異なる福音にとり込まれ、彼らをサポートするグループもいました。
 それは、迫害や困難を乗り越えながら福音を宣べ伝えてやまなかったパウロにとってどんなに痛ましく悲しいことであったか知れません。

 10章、11章には、偽預言者でありながら自分たちのことを大使徒と称して、使徒パウロを中傷し、おとしめようとした数々のことが、パウロにより裏返しの言葉を使って伝えられています。
 10章10節では、彼らがパウロのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」などと言っていたことが分かります。
 11章8節には、「わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも」と書かれていますが、岩波版の聖書では、この個所は「強奪したと(言われている)」と訳され、パウロの口から出た言葉ではなく、偽大使徒たちがパウロに浴びせかけた言葉として言い換えられています。

 パウロはまた11章7節から9節にかけて。コリント教会では「福音を無報酬で告げ知らせた」とか、「あなた方に負担をかけないようにしてきた」と語っています。
 このことは8章、9章に書かれている、ギリシャ北部のマケドニア州と南部のアカイア州の諸教会がパウロの奨めに応じて、自分たちの乏しい中から、貧しさに打ちひしがれているエルサレム教会の人々を助けるために自発的に、惜しみなく捧げた献金をパウロが自分のものにしたというあられもない中傷を浴びせかけていたことが背景になっています。

 第二の手紙は、第一の手紙の一年後くらいにパウロがコリントを去り、エフェソに帰ったときに、事態を憂慮して書かれたものですが、第二2章4節には、「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対して溢れるほど抱いている愛を知ってもらうためです。」と書かれています。

 自分に言われた悪口などは誰でも二度と耳にしたくないはずです。しかしパウロがあえて手紙の中で偽預言者、大使徒たちの言葉を持ち出して反論したのは、彼らの自己中心的な行動や、人間の愚かさ、言葉の暴力などを明らかにして、コリントの教会がキリストの体としてふさわしい教会に建て上げられていくように、信徒たちを支え、励ますためでした。

 パウロは問題の多いコリント教会に接しましたが、コリント第一3章5、6節(302頁)を見ると、人間的な結び付きで分派争いをしていたコリント教会の人たちに対して、「アポロとは何者か。パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」と自分自身の立場を、主の御業に仕える者、キリストの僕(しもべ)として言い表し、信徒たちがただひたすらキリストに連なることによって一つとされるように教え、諭していたことが分かります。

 11章10節にパウロはコリントの人々に、「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。」と語っています。パウロが語っているのは、自分自身のことではなく、偽預言者や自称大使徒たちのように自分たちを誇るようなことでもありません。ただ、キリストの真実と愛による神の御言葉を語り、キリストの福音を語ることでした。
 コリントの教会は人間的な、あまりにも人間的な言動に振り回されて混乱に巻き込まれるという危機にさらされました。しかし神は、使徒パウロと彼の同労者たちの愛と涙を通して、人間の弱さの中にこそ、キリストの真実と愛の力が豊かに働いてくださることを知らせました。

 パウロは、11章12節以下で、「わたしは今していることを今後も続けるつもりです。」とコリントの教会の人々に伝えています。そして11章16節から12章10節まで、イエス・キリストの使徒として伝道していく中で受けた数々の労苦や迫害されたことを語り、そのような時に、人間としての弱さに打ちひしがれることがあったことを率直に告白し、しかしその弱さの中に働いて、助け、導いてくださるキリストの力と愛を与えられたことを証しています。
 このようにしてコリント第二の手紙は13章13節で、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」と礼拝の最後に祝祷として用いられる祈りの言葉で結ばれています。
 この祝祷の言葉は聖書の中でこの個所だけに記されている祝祷の言葉です。コリント教会の直面した様々な混乱、そのことに関わった使徒パウロが主の言葉と導きによって悲しみの思いを乗り越えて最後に書き送った祝祷の言葉を、私たちも新しい週ごとに、感謝をもって受けとめアーメンと唱和していきたいと存じます。

 コリントの教会の歩みは、私たちの教会、いずこの教会の歩みにおいても、主なる神に顧みられ、また行く手を示される御言葉で綴られています。私たちの教会は開拓伝道開始以来53年目を迎え、建築問題や、専任牧師を招聘する課題など、今、主から大切なチャレンジを受けています。キリストの体である教会に連なる私たちの歩みに、さらに主イエスが伴ってくださり、祝福してくださるように祈り求めていきましょう。

(祈り)神さま、教会はいずこにおいても、いつの時代にも内外からの試練にさらされたりチャレンジを受けたりします。
 けれどもあなたは御子イエスによって夜も昼も光を放って下さいます。一人一人の歩を、あなたの教会の歩を御言葉によって豊かに、確かに照らしだして下さい。今ここに共に集うことが出来ない多くの友を覚え、一人一人を主の御霊が豊かに執り成して下さいますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン