愛がきずなとなって

コロサイの信徒への手紙3章12~17節

2015年7月5日主日礼拝

 コロサイの信徒への手紙は、執筆者や書かれた年代に関しては諸説がありますが、伝統的には紀元61年頃、使徒パウロがローマの獄中からコロサイの教会の人たちに宛てて書き送られたものであると推定されています。

 コロサイは現在のトルコの西南部の内陸に入った地域にあって、当時の、小アジアの陸路、海路の要所であったエーゲ海沿いのエフェソから160キロ位、東の内陸地帯にあったとみられています。

 この手紙が書き送られた当時、ギリシャ、小アジア、パレスチナ、エジプトなどはローマの占領下にあって、コロサイ教会があった地域はフリギア地方と言われ、コロサイはこの地域の山岳地帯からエーゲ海に流れ出るメアンダール川の支流になっていたリュコス川の流域にありました。
 そしてコロサイから17キロ下流には、ヨハネの黙示録でよく知られているラオディキアと、ヒエラポリスという町がリュコス川を挟んで向かい合っていました。

 この二つの町とコロサイの町には、土着の住民、入植して来たギリシャ人、ユダヤ人などが住み、それぞれの民族が持ち込んでいたさまざまな文化的、宗教的な事柄が入り交じっていました。
 コロサイ書1章には、罪と死の支配の許にある全ての人は、ただイエス・キリストの十字架の死と復活による救いを信じて、真の平安と希望に生かされる者となることの確かさが書かれています。

 しかし、2章6節から3章11節を見ると、コロサイ地方のクリスチャンたちには、ギリシャ哲学の影響下にあった天使礼拝、人間の言い伝えに基づく哲学、極端な禁欲主義的生き方、あるいは霊と肉を分離して、肉の欲を満たす放縦な生き方を認めるなど、異端的教師の教えが入り乱れて影響を及ぼし、教会の中に混乱が持ち込まれていたことが書かれています。

 リュコス川添いにあった三つの都市は、毛織物工場や染物工場等があって繁栄し、
 3章5節にあるように、この世的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲などによって自らに破滅をもたらすような、神に対する不従順な罪に取りつかれる人々が多くいたとみられています。
 その結果としての人々の生活態度には8節にあるように、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉などがあったことが指摘され、そのような人々に対して、神のみこころに従い新しい人となって日々新しく生きる者となるように語りかけられています。

 このような問題は、今日の社会や私たちの生き方と遥かにかけ離れている昔の小アジア地域の人々の問題ではありません。小学生、青少年の間では依然として「いじめ」の問題が絶えなかったり、とても人間がすることとは思えないような殺生事件が相次いで起こったり、神から与えられた人の命、人格の尊厳性を脅かすような問題が年代を越えて根強く社会に食い込んでいることを私たちは知らされています。
 このように、今日、神と無関係に生きる人間の自己主義的生き方が作り出す反社会的な問題が多様にあることを私たちはしっかりと覚え合っていく必要があります。

 3章12~15節に書かれてあることは、このような問題を背景にして、信仰生活、教会生活のあり方、クリスチャンの生き方についての心からの勧めの言葉として書き送られたものです。

 まず3章12節前半には、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と呼びかけられていますが、1コリント1章26~28節に書かれていることを、要約的に言いますと、「神が、私たちを選んで下さったのは、私たちが有能で、優れた資格を持っているからではなく、むしろ無きに等しいような者を、神は選び、聖なる者としてくださる」ことが、書かれています。「聖なる者としてくださる」とは、神ご自身が、私たちを選び分かたれた者とし、ご自身に属する者として下さったことを示す言葉です。
 神はイエス・キリストの十字架の愛をもって、私たちをそのようにして下さったことが告げられているのです。

 私たちは、このような神の愛をわが身にいただいていることを感謝し、喜び、キリストの愛に心打ち砕かれ、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい、と教えられているのです。
 コロサイ書では、イスラエルの民に向けられたこのような言葉が、3章11節にあるように、蔑み、差別する間柄にあったすべての民族、人種に呼びかけられており、神の愛がすべての人に変ることなく注がれていることが示されています。

 紀元53年から56年まで、パウロが第三回伝道旅行でエフェソに滞在していた時に信仰に導かれた人たち、例えば、1章7節で紹介されているコロサイ教会の指導者エパフラスのような信徒たちによって、リュコス川沿いの町々に伝道がなされ、教会が形成されていました。コロサイの教会もエフェソで信仰に導かれた信徒たちによって開拓伝道がなされ、教会形成がなされたと見られています。

 しかし、ヨハネ黙示録3章15-16節には、この地方にあったラオデキィア教会のことが「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい、熱くも、冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」と厳しく批判され、自分たち自身の問題性が見えなくなっていることが指摘されています。

 しかしその続きを読んでみると、神はなおもそのような群れを愛し、悔い改めを呼びかけ、戸口に立ってドアをノックし、「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って食事を共にする」と、神の真実な、熱い愛が告げられています(黙示録3章20〜21節)。
 キリストの真実な愛、アガペーの愛によって救われた人は皆、コロサイ書3章12節後半に書かれているように、「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」、と語りかけられています。そして、14節には、「これらすべてに加えて愛を身につけなさい。愛はすべてを完成させるきずなです。」と、奨められています。
 「加える」ということは、ベルトでしっかりと締めるように、あるいは、帯紐で着物をしっかりと結び付けるように、身につけることです。

 私たちは愛することにおいて弱く、破れやすく、限界につきまとわれます。そのような私たちが愛し合い、赦し合い、一つにされ、平和のうちに共に生かされていくようになるためには、キリストの愛を慕い求め、キリストの愛をしっかりと身につけるようにと、語りかけられているのです。

 さらに、15節後半には、私たちをそのように結び合わせ、助け導いて下さる神に「いつも感謝していなさい」、と教えられています。

 新生讃美歌446番では、「いつも喜んでいなさい」「感謝しなさい」「祈りなさい」と繰り返して歌われています。かつてこひつじ園の子どもたちがこの歌を手話でよく歌いました。クリスチャンの中には、幼い時から霊的に育まれ、小学生、青少年期にバプテスマを受け、主に仕える働き人となって成長して来た人が少なくありません。
 このような面から考えても26日の「JOY JOY 夏の子ども会」はとても大切な計画です。

 神を愛する生き方とは無関係に生きる人が多い世の中で、私たちには、イエスさまの十字架の愛を忘れて、怒ったり、愚痴をこぼしたり、不平、不満にとらわれてしまうようなことはないでしょうか。空しさに取りつかれることはないでしょうか。
 私たちは、キリストの愛を覚えながら、神と人とに仕える生活を何よりも大切にしているでしょうか。

 16節では、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩篇と賛歌と霊的な歌により、感謝して神をほめたたえなさい」と語りかけられています。

 詩は詩篇の歌であり、讃美と霊の歌は、今日私たちがみんなで歌う讃美歌に当たると言ってよいでしょう。
 旧約聖書の時代も、新約聖書の時代も、会衆の讃美は礼拝の中の付け足し部分ではなく、聖書朗読や、祈り、説教とともに礼拝の重要な要素を占めていました。

 歴史を貫いて多くの人々が詩と讃美と霊の歌を共に歌うことによって、キリストを信じて告白する信仰を深められ、愛と平和のうちに結ばれて、教会を形づくり、キリストの福音を宣べ伝え、証ししてきたのです。

 今日、巨大化したマスメディアによって、様々な情報が氾濫し、人の生き方や価値観が入り乱れていくような時代の中で、人は情報に振り回され、神から与えられた大切な自分自身を見失ったり、あるいは逆に意図的に、画一的に繰り返される情報によって操作される危険性にもさらされています。神から与えれている固有性の尊さを、私たちは大切にしていかなければなりません。

 さらに、コロサイ3章12~17節で繰り返し書かれている言葉に注目したいと思います。「あなたがたは」「互いに」「~し合いなさい」という言葉です。
 これらの言葉によって私たちは、信仰生活はそれぞれの人の個々別々な事柄ではなく、キリストの愛の絆で結び合わされていく信仰共同体、すなわち、キリストの体としての教会を建て上げていく共なる歩みであることを示されます。

 これらの御言葉を聞くとき、高齢のゆえに、あるいは病のゆえに、あるいは日曜出勤のために、あるいは家族関係や何かの支障のゆえに、教会学校や礼拝の場に直接出席できない人たちのことを覚えさせられます。

 先程、「愛はすべてを完成させるきずなです」という14節の言葉に触れましたが、この言葉はコロサイ書の中のキーワードともいうべき御言葉です。
 この「愛」は、変わりやすい人間的な「エロス」の愛ではなく、または友愛を表す「フィリア」をも越える「アガペー」の愛です。主イエスの十字架の愛です。自分の命を与えてまでも、人を罪と死の支配から救い出さずには止まない神の真実な愛です。

 今日は、引き続き主の晩餐に与ります。パンと杯を分かち合いながら、あの方にも、この方にも、わたしにも、あなたにも注がれている神の愛、また、礼拝に出席できない兄弟姉妹たちにも変わることなく注がれている神の愛を互いに覚え合い、キリストの十字架の愛のきずなで結び合わされているお互いであることを覚え合いながら、主の晩餐に与りましょう。

 人を惑わすようなことが氾濫している時代状況の中で、また、自己主義、自己充足にとらわれやすい世のただなかで、また、ともすれば、神から与えられた掛け替えのない命、人格が見失われかねない人生の歩の中で、キリストの愛のきずなで互いに生かされて生きる人生の日々を生き抜くことが出来るように、主の命の御言葉、主の御霊の導きを祈り求めていきましょう。

 そしてキリストの愛の絆で結びあわされる信仰生活、教会生活を一人でも多くの新しい人々に証し、伝えていく群れとなることが出来るように主の導きを祈り求めて行きたいと存じます。

(祈り)
 神さま、主イエスさまによる愛の絆で結び合わされていく教会、その交わりの輪を人々の間に広く、深くつくり出していく教会を建て上げていく道が拓かれていくように、私たちの主にある信仰生活を導いてください。ただ今から主の晩餐に共に預かります。ここに出席している友、出席できない友を憶えながら、主の愛の絆で一人一人を結び合わせて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン