ルカによる福音7章36~50節
2016年10月30日主日礼拝
いつも親しく顔を合わせて聖書を学び合う教会学校のクラスに涙を流しながら入ってくる人がいるでしょうか。また、共に礼拝をささげる礼拝堂に泣きながら入ってくる人はいるでしょうか。ふだんにはあまり見られないことです。しかし、あるいは心の中では涙を流しながら入ってくる人がいるかも知れません。
涙を流しながら、と言っても、それはどういう涙なのでしょうか。喜びの涙でしょうか、感謝の涙でしょうか、悲しみの涙でしょうか。
この礼拝堂で多くの友が、イエス様を救い主と信じる信仰告白をして、バプテスマを受ける時に、涙を流して新しい人生の門出に立った友の姿に触れて、私たちは幾度も感動を覚えさせられ、互いの信仰を新たに導かれる恵みを受けてきました。
ルカ7章36節以下に、ファリサイ派のシモンという人の家にイエス様が招かれて食事をしている席に入って来て、泣きながらイエス様への心からの信仰を表した一人の罪深い女性の人の振る舞いが書かれています。
ある一人の女性が香油を注いだことはマタイ26章6~13節、マルコ14章3~9節、ヨハネ12章1~8節にも共通して書かれています。この三つの福音書に共通している点は、この出来事の場所が、ヨルダン川が死海に流れ込む場所であり、エルサレムに近いベタニア村であったことです。
また、この女性が壺に入れて持ってきて主イエスに捧げたのは、非常に高価なナルドの香油であったということです。ヨハネ福音書には、その女性はマルタの妹のマリアであったことが明記されています。
さらに、マタイ、マルコ、ヨハネ福音書で共通している点は、イエス様が十字架の死を遂げるときの備えになることとして書かれている事柄であります。
この女性は、イエス様がファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられることを知り、その家にやってきました。当時ユダヤでは食事の席に外から他の人が出入りすることは差し支えのない習慣であったと伝えられています。
当時、巡回する教師や尊敬する教師を自分の家の食卓に招くことは、称賛すべき行為とされていました。40節を見るとシモンは、イエス様を「先生」と呼んでいますから、イエス様には一目おく謙虚さ、あるいは宗教家としての向上心を持っていたのかも知れません。
その町で、「罪深い女」と言われている人が、招待された多くの人々が集まっている所に入ってくることは気安くできることではありません。しかしこの女性はあえてこのような行動に出たのです。そして、イエス様に対して彼女がふるまったことは、イエス様に対するこの女性の信仰と、その心情の深さを語ってあまりある様子がここに表されていると言えます。
7章34節には、イエス様が徴税人や罪人の仲間たちと一緒に食事をしていたことがファリサイ派の人々や律法の専門家たちから批判されていたことが分かります。
この女性はそうしたことを見聞きして、イエス様の大きな愛を既に知らされていたと思われます。知らされていたから香油の入った壺をもってやってきたのです
そのような前段階があって、彼女は「罪深い女」と言われているような自分に目を止めてくださり大きな愛をもって全面的に受け入れてくださるイエス様によって心を打ち砕かれ、恥も外聞もかなぐり捨てて、ありのままの自分をさらけ出しながら、イエス様に近づき、感謝と喜びの思いを注ぎ出したのではないかと思われます。
ところがそれを見たシモンは既にお話ししたように、39節で、、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ、罪深い女なのに」と思いました。
彼の心の内をみてとられたイエス様は、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われて、41節以下に書かれてあるように、「ある金貸しから50デナリを借りた人と、その10倍の500デナリを借りた人がいて、二人とも返せないので帳消しにしてもらった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と、言われました。
シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答え、イエスも「その通りだ」と言われました。多く借りて、多く赦された人がそれだけ多く愛するようになることは当然です。これは社会通念です。シモンにとっては、それ相応で良いことであり、それ以下のものでもそれ以上のものでもないのです。イエス様も社会通念上は確かに「そのとおり」だとおっしゃるのです。
しかしこの借金返済をめぐるたとえが語る重要なことは金額の多少を越えて、二人とも借金を帳消しにしてもらったということ、二人とも赦されているということです。
この女性は罪の大小を問われる前に、イエスさまが自分に目をとめ、赦しの愛の中に迎え入れてくださったことを知らされていたのです。
38節に、彼女は「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油をぬった。」と書かれています。
女の人が束ねてある髪の毛をほどいて垂れ流し、涙でぬらしたイエス様の足をぬぐうということは、イエス様を目の前にして感動のあまりに、イエス様の足を濡らすほどに涙が溢れ出たことを物語っているのではないでしょうか。
彼女はイエスによって赦され、愛されているひとりの人間としての自分を覚え、その大きな恵みに心ほだされて新しく生きる人に導き入れられたのです。
しかし、イエス様は、シモンが彼にとってもっと根本的に大切な課題があることに気づいていないことを見ておられます。
40節で、イエス様は「シモン、あなたに言いたいことがある。」と言われ、44節を見るとイエス様は、「女の方を振り向いて、シモンに、『この人を見ないか』と注意を促されました。
イエス様は、ここで、シモンに、そして私たちに、ほんとうに気づいてほしいことを気づかせようとして呼びかけておられるのです。
シモンはイエス様が指摘されたように、当時のユダヤでは、来客に対する当たり前の礼儀ともいうべきこと、足を洗う水も出さず、接吻による挨拶もしませんでした。ましてや高価な香油を頭に塗ったり、足に塗ったりすることは思いも及ばないことでした。
彼は「律法」、今で言えば「聖書、そしてその厳密な解釈」に通じた人間であり、律法を厳密に守り、立派な人に見えたのですが、イエス様の御目には愛に欠けでいる人であり、自分しかない人間であり、自分の罪に泣くことなどのない人間のひとりとして終始しています。人は自分に溺れ、時の流れに溺れて、神の愛を感じ取っていく感性を失い神から離れて自分に居座るようになってしまうのです。
ほんとうは「罪深い女」と言われたこの女性も、ファリサイ派のシモンも、神に対してはどちらも負債を背負っているのです。そしてシモンが思い込んでいたように、人は自分の立派さや正しさによって神の祝福を受けることなどは到底できるものではありません。
主イエス様は罪深い女と言われた人が、ファリサイ派のシモンが、そして私が、あなたが、すべての人一人一人が、神の大きな赦しの愛によって生きる人となるように、尊い御体を十字架上に引き裂かれ、私たち人間の罪を贖う死を遂げられました。
シモンや町の多くの人々がいつも自分を罪深い女として冷ややかに見ていたのに、イエス様は罪深いその人を受け入れ、女の人のなすがままにご自身をまかせ、女の人の側に初めから立ち、その人の重荷を引き受けていて下さったのです。
罪の女はイエスさまによって真実の愛を知らされ、その愛を心から感謝して受け入れ、恥も外聞もかなぐり捨てて悔い改めと、感謝と喜びの涙を流しながら、イエス様の愛に応えたのです。
私たちは今、この時も、罪の女が示されたイエス様のもとに招かれているお互いです。イエス様の愛の中に受け入れられている一人一人です。
そして、イエス様から「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と祝福していただき、感謝と喜びをもって、偏見や争い事の多いこの世の生活の中にイエス様の愛を携えて遣わされて行く一人一人になるように、主のお導きを祈り求めていこうではありませんか。
(祈り)「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる」(詩編34編19節) 父なる神様、主イエス様のみ前に自分の罪、自分の弱さを覚え、そのような私たちを受け入れ、助け、導いてくださるイエス様の愛に生きる人生の確かさに、私たちを立たせてください。
日々新たに、感謝と喜びと悔い改めの涙を流すことの出来る砕かれた心を抱いてイエス様の愛に互いに応え合って行くことが出来るように私たちをお導きください。 主の聖名によって。アーメン