ゼカリヤ書9章9〜10節
2017年8月13日主日礼拝
イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場され、十字架の死へと向かって行かれた出来事は、ゼカリヤ書9章9~10節に書かれてある預言が成就された出来事として四つの福音書全部に引用されています。
ゼカリヤは、イスラエルの民が、ペルシャ王キュロスによって故国への帰還を許された紀元前538年からおよそ20年後に、預言者ハガイと共に、エルサレム神殿の再建のためにイスラエルの民を励まして、預言者としての使命に生きた人です。
ゼカリヤ書には数多くの幻が記され、象徴的な言葉が多く用いられ、エゼキエルやダニエルと共にゼカリヤは「幻を見る預言者」と呼ばれています。ヨハネの黙示録や四つの福音書を含めて新約聖書に最も多く引用されている預言書であります。
ゼカリヤ書は大きく二つに分けられていますが、1~8章にはゼカリヤの時代の人々に直接かかわりを持つメッセージが幻によって示され、9~14章には多くのメシヤ預言が書かれています。
今、多くの人々が、平和の実現を祈り求める8月の日々の中で、戦後72年を振り返りながら再び神のみこころに添わないような戦争を起こすことのないように、心新たに歴史を顧み、神の導きを祈り求めていると思います。
ゼカリヤ書1~8章では、イスラエルの民が犯した背信行為、戦争によって受けた悲惨、神から下された厳しい審きなどを通して、そこから新たに示される神の救いの御業が指し示されています。
9~14章ではメシア預言が多く書かれていますが、今朝お読みした9~10節はメシア預言の中で、中心的な位置と意味がここにあると示されている御言葉であります。もう一度読んでみましょう。→ゼカリヤ書9章9~10節(P.1489)
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられる者
高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
これらの御言葉は多少の違いはありますが、その中心部分は、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書に同じように引用されています。
ゼカリヤ書9章9節では、真の王が、神に従い、勝利を与えられた者として、へりくだった姿勢と平和に徹する姿勢を象徴する雌ろばの子に乗ってエルサレムに入場することが告げられています。
この預言はイエスがいよいよ十字架の死へと向かわれる最後の一週間の初めの日に雌ろばの子であるろばに乗ってエルサレムに入場されたことによって成就され、さらに10節には後に北王国イスラエルを表すようになったエフライムとエルサレム、即ち、イスラエル全土から、戦車、軍馬、戦いの弓が絶たれ、全世界に平和が到来する日が実現されるという幻が告げられています。
ゼカリヤは、ろばに乗って来るまことの王によって実現される平和に対して、それとは対照的に、9章1~8節に書かれていますが、当時のイスラエル北部のダマスコやアッシリアの首都となったハドラク、あるいは地中海沿いのティルス、シドン、ガザというような、諸都市が経済的な繁栄を極め、武力を強化していたこと、あるいはエジプトの方から勢力を伸ばして来てイスラエルに侵入しようとしていたペリシテ人など、奢り高ぶりに取りつかれていた民族がいたことに対する神の審を見抜いていました。
マタイ福音書21章1~4節を見ると、イエスさまはエルサレムに入城するために、弟子たちに向こうの村へ行って、つないであるろばとそのロバの子の綱をほどいて引いてくるように、と言われました。だれかが、何か言ったら、「主がお入り用なのです」と答えるようにお命じになりました。
イエスがご自分のことを「主」即ち、「メシア」と言われたのはこの時が初めてでした。イエスはろばの子に乗ってエルサレムに入城される、この出来事によってご自身が真のメシア、真の王として世にこられたことを現されたのです。
イエスが十字架の死を前にしてろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのは、真の救いと平和は、力によって、また奢り高ぶることによってもたらされるのではなく、人の弱さを背負うことによって、また、神の前にへりくだり、仕える姿勢を貫く主ご自身によってもたらされるものであることを現された出来事でありました。
しかし、当時、ユダヤの人々が、イエスの弟子たちをも含めて、ろばの子に乗ってお出でになったイエスを、喜びの声を挙げて迎えたのは、ゼカリヤによって告げられた預言の言葉を正しく受け止めた上でのこととは必ずしも言えない状況がありました。
人々の中には、イエスが神の子の力をもって自分たちをローマの支配から解放してくれる政治的、軍事的、経済的メシアであることを期待して歓迎した人も弟子たちを含めて少なくなかったと思われます。
イエスがユダヤ当局に捕らえられ、不当な裁判を受けていた時、ペトロがイエスを裏切ったり、イエスが十字架の死に追いやられる無力な姿にさらされたとき、群衆の中には祭司長たちの扇動に乗って、ローマの総督ピラトの前で、犯罪人の一人であったバラバではなく、「イエスを十字架に付けよ!」と叫ぶ側に変わってしまった人々がいました。
もし、同じ時代に私たちが生きていたとしたら、ろばの子に乗ってエルサレムに入城され、ついには十字架にかけられてしまったイエスに対して、私たちは果たしてどのように反応したかと考えて見る必要があります。
私たちはイエスを裏切ったペトロや群衆やユダと同じ過ちを犯すことはないでしょうか。私たちもまた大事なところでこの世的な力に心をひかれて、イエスによって示される真実な道を見失うことがあるのではないでしょうか。
馬、即ち軍事力による平和の維持か、ろば、しかも、ろばの子に乗ってお出でになる王によってもたらされる平和か、私たちは今、読んできた聖書の御言葉から、今日の時代の状況を見極めていく必要があります。世界の状況は、平和の主であられるイエスさまとは反対方向に向かっているのではないでしょうか。
イエスのエルサレム入場について書いてある四つの福音書を見ると、マルコとルカと、ヨハネは「ろばの子に乗って」と共通して書いており、マタイ福音書は21章7節で、「ろばと子ろばを登場させ、イエスをそのどちら乗せたか、はっきりしません。
いずれにせよ私たちはイエスさまを乗せたろばの親子のことを通して、イエスの救いの御業に仕える使命を、親と子、大人と子どもとの間に受け継がれていく信仰の大切なあり方を受けとめたいと思います。
戦争と平和、これほど、人々を、また世界を、大きく明暗に分ける出来事はありません。ゼカリヤ9章9節には平和に満たされたエルサレムの状況が書かれていますが、イスラエルの民がバビロンに囚われの身となっていた紀元前587年の時代の様子が、哀歌の2章11~12節(1287頁)には次のように書かれています。
「わたしの目は涙にかすみ、胸は避ける。わたしの民の娘が打ち砕かれたので、わた のはらわたは溶けて地に流れる。 幼な子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。
幼な子は母に言う パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。
都の広場で傷つき、衰えて 母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。」
毎年8月になると、テレビ、ラジオ、新聞等で沖縄、長崎、広島での出来事が改めて伝えられます。このことは時代を越えて語り続けられ、聞き続けられていかなければならない大切な事柄です。
日本は第二次世界大戦で、1945年8月15日に敗戦の日を迎えました。この日を『終戦記念日』とは言わずに『敗戦記念日』と言い表して、無謀な戦争が悲惨な敗戦を招いたことをいつまでも覚え続けようとしている人々も少なくありません。
1945年3月11日の東京大空襲では死者13万人、3月26日から6月13日の沖縄戦では約19万人、8月6日の広島では原爆で14万人、8月9日では長崎の原爆で7万4000人の多くの市民を含む人々が掛け替えのない命を失いました。
哀歌の2章に書かれているような悲惨と嘆きの声が世界中で叫ばれてきたのです。
中近東、南アジア、東アジア、ロシア、アフリカなど、殆どの世界各地で利権や国土争い、民族紛争を巡って、軍事力の強化が諸国の間で進められています。
世界は、今また闇に覆われ、平和は到来するのかと人々は疑念を深め、ろばの子ではなく軍馬の力に頼ろうとする傾向が度を増して見られます。
しかし、ゼカリヤ書14章6節(1494頁)に告げられている御言葉の確かさを私たちは示されています。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。その時は昼もなければ、夜もなく 夕べになっても光がある。」。
「夕べ」とは戦争、戦禍、捕囚を言い表す言葉とも受け取られます。この預言の言葉は終末的な預言の言葉です。世の終りの日に神による平和が必ず実現されるという希望の言葉が告げられています。私たちはその預言の言葉が平和の君イエス・キリストによってもたらされる信仰を与えられています。
今、この時代の中で、全世界の人々が、戦争と平和の狭間(はざま)の中で神からの命、人格を与えられて生かされています。世のすべての人が、雌ろばの子であるろばに乗って来られるお方をこそ、まことの救い主であられることを信じて受け入れ、キリストの平和の福音を伝える使命を担い合っていく、その彼方に真の平和が完成されることを信じて、キリストの十字架の死と復活による救いの福音を証し、伝え続けていく群れとなるように祈り求めていきたいと切に願ってやみません。
(祈り)
神さま、あなたは、「主がご入り用なのです」と人に声をかけられ、愛と平和と真実の救い主イエスをお乗せするろばの子を求めておられます。国家の権力を託されている人々が、エルサレムに入場された時の主イエスに目を注ぎ、馬を捨ててろばの子に乗り換えるように、また、私たちすべての人が平和の君イエスをお乗せするろばの子であることができるように導いてください。
真の救い主、平和の君、イエス・キリストの御名によって、アーメン