空の鳥、野の花をよく見なさい

マタイによる福音書6章25〜36節

2017年2月26日 主日礼拝説教

 マタイ福音書5~7章に書かれている主イエスの山上の説教は、長い歴史をつらぬいて世界中の多くの人々に親しまれて来た聖書の主要な箇所の一つであります。しかし「山上の説教」は、単にすばらしい教えとして受け止められて終わるものではなく、主イエスが私たちすべての者に語りかけておられる救いのみ言葉であり、主イエスによって生かされて生きる命のみ言葉であります。

 今朝は皆さんと共にマタイ6章25~34節に語られているみ言葉から示されることを改めて聴きたいと思います。「空の鳥をよく見なさい」(6章2節)、「野の花がどのように育つのか注意して見なさい」(6章28節)と書かれています。イエスさまはただ、「見なさい」とおっしゃったのではなく、「よく見なさい」「注意してみなさい」と、一言一言に熱い思いを込めて語られたのです。

 イエスさまは集まっていた弟子たちに、自分の体のこと、命のこと、食べ物のこと、衣服のことなどで、「思い悩むな」と言われました。これらのことはみな、日常的なことです。毎日のことです。そして一生涯のことです。
 人がどんなに富を得ようと、また高い地位を得ようと、あるいはその反対の状況にあろうと、これらのことを避けて生きることはできません。

 イエスさまは、私たち一人一人が神から与えられている命、人格のかけがえのなさと、その尊厳性を生きるために33節にあるように、「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言われました。
「神の国と神の義を求めなさい」と言うことは、私たちのうちに、この世界に、神のみこころにかなうことが行き渡るように祈り求めることです。
 言い換えれば、私たちの罪深さや人間の悪がはびこっている世にあって、神の御心にかなうことがすべての人々の人生の歩みの上にもたらされるように願い求めることです。

 イエスさまは、人それぞれに、様々なあり方で人生の途上にある者たちに向かって、思い煩いに足元を掬われることなく、すべてを主に委ね、神への信頼に生きるように呼びかけて下さいました。
 しかし私たちは、「思い悩むな」と言われても、あまりにも「思い悩まざるを得ない」状況に覆い尽くされています。

 高齢化社会、長寿社会になっていくなかで、病との闘いが長くなったり、孤独を感じたり、介護を受ける生活、介護する生活の苦闘などがあります。
 少子化時代となりながら、子どもたちが一人で外へ遊びに出られないような状態が広がり、子育てに悩んでいる人も少なくありません。世はまさに、多くの人が思い悩み、苦悩する事態にさらされ、人の命、人格が無残に踏みにじられるような非人間的事件も後を絶つことなく起こっています。

 価値観の多様化、情報の氾濫、物質主義的、自己中心的生き方が広がる中で、神を神として崇めようとしない人間の罪深い生き方が、世代を越えて浸透し、神から与えられた命、人格の尊厳性の喪失状態が広がり、深まっています。
 私たちは、このような事態を我が身に深く覚えながら、目を転じて神の御業を仰ぎ見るように、主イエスの山上の説教を通して救いのみ言葉を聴いていくことが求められているのではないでしょうか。

 神がご支配なさる自然の摂理の中で、スズメは5年以内、多くの鳥は10数年以内しか生きられないと言われていますが、自由に空を飛び交う鳥を指さしながらイエスさまは、マタイ6章26以下で、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」と言われました。

 ルカ福音書12章22節以下に、マタイのこの箇所と共通するみ言葉が書かれていますが、ルカ12章24節には、「烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」と、書かれています。
「空の鳥をよく見なさい」ということの中で、ルカ福音書では「神は烏(からす)を養っていてくださる」と書かれていることに、感動を覚えずにはいられません。

 レビ記11章には清いものと汚れたもの、食べてよいものと、ならないものが区別されて書かれています。レビ記11章13〜19節(P.177)を見ると、イスラエルの民の歩みの中で、「烏は汚らわしいものとして扱え」と言われ、禿鷲(はげわし)、鳶(とび)、などと共に、烏(からす)は不浄の鳥、価値のない鳥と見なされていたことが分かります。
 主イエスの説教を聴いていた弟子たちも群衆も、烏のことはよく知っていたはずですから、イエス様が語られた言葉の意味を考えさせられたのではないでしょうか。

 私たちの教会では、1961年12月4日の開拓伝道開始以来、今年は55年目に入っていますが、牧師のひとりとしてのささやかな働きのなかで、いろいろな人々との出会いがあり、また別れがありました。

 一つの出来事としてある一人の兄弟との間にあったことをお話しいたします。
 この兄弟は20代の時から病を患い、やはり病弱で50年余も弱さに打ちひしがれてきた妻に先立たれ、住み慣れた志村の地域を離れて東京都東村山市にある都立の養護施設に入居しました。訪ねてくる身内もいないので、孤独と不安にさらされていました。
 ホームに入った当初、彼は私が訪ねるたびに、「もう私には何もすることがない。私は何もできない。早くお迎えがくるといいのだが、…」とニヒルな口調で幾度も繰り返して言っていました。
 しかし、毎週教会から送られる礼拝テープを聞き、み言葉を一句添えた手紙を受け取り、またしばしば3、4人で一緒に訪れて、小さな礼拝、主の晩餐を共に守り続けていくなかで、彼は魂の葛藤を抱えながらも、イザヤ書43章4節(P.1130 )にあるように、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの代わりとする。」と語りかける神の大いなる愛を次第に思い知らされるようになっていきました。
 彼は2006年9月に、肺炎と膵臓ガンを併発し、新座市の野火止から近い所にあった救急指定病院に入院され集中治療室で3週間余治療を受けていました。私は身内ではなかったので、ホームの施設長から病院に彼の身辺の事情を話してもらい、看護師長の承諾をいただき2、3日置きに集中治療室に入ることが出来ました。

 彼は喉に穴をあける気管切開の治療を受けたために話をすることができなくなり、うなずいたり、首を横に振ったりして応答を交わしていました。意識混濁状態に陥る2日前に、ヨハネ福音書3章16節のみ言葉を読むと彼は大きくうなづき、手を握って祈ると、力を入れて握り返し、彼と出会って19年間を経るなかで、一度も見たことのないような、満面に溢れる程の微笑みをもって応えてくれました。
 その時から3日後に79歳で天に召されました。
 このような出来事は、主イエスが彼に伴われ、主の御霊が彼の内に生きて働いて助けていてくださることを抜きにしては考えられないことでした。

 28節以下で主イエスは、「野の花がどのようにして育つのか、注意してみなさい。~きょうは生えていて、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか。ああ(口語訳30節)信仰の薄い者たちよ。」と、聴衆に語りかけておられます。

 また、6章27節以下では、「あなたがたのうちのだれが思い悩んだからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。」と、問いかけ、自分の知恵や経験や、力量で、『何をたべようか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」と語っておられます。
 2000年の5月下旬から6月の上旬にかけて、パレスチナ、イスラエルに旅をする機会が与えられ、5月24日の昼頃、主イエスが山上の説教を語られた丘の上に立ってみることが出来ました。ガリラヤ湖の北の岸辺から近い所です。

 辺りはまさに一面に枯れ草の広がりになっていました。3月から4月頃まで、雨が降る季節には野の百合や、アネモネ、水仙、小菊など色とりどりの花一面になっている所が、5月初旬からの乾季に入ると、すぐ枯れ果ててしまいます。まさに「今日は生えていて明日は炉に投げ込まれる野の草花」になってしまいます。
 今、私たちがどのような状況にあろうとも、「あなた」は「あなた」しかいない。「わたし」は「わたし」しかいない存在として神からの生を受けています。
 私たちは、主イエスがかけがえのない者として顧み、助け、生かしていてくださる、空の鳥であり、野の草花であります。生きることにおいて、愛や真実を貫くことにおいて、私たちは、私たちが抱えている弱さ、限界、神から離れてしまう罪深さ、思い煩いから自由になることは出来ない者です。そして時がくると誰一人として例外なく、この地上での生活に終わりを告げられます。

 しかし、そうであればこそ、神は私たちのもとに、救い主イエスをお遣わしになったのです。

 すべての人の生をも死をも支配される父なる神は、御子イエスの十字架の死をもって私たちの死を背負い取り、私たちの罪を贖い、御子イエスの復活をもって、永遠の命に生きる道を私たちに備えてくださいました。主イエスを離れては人も、世も救われません。

 イエスさまは、空の鳥、野の花の譬えの最後で、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6章34節)と語られました。

 内村鑑三は自分が主筆となっていた『聖書之研究』誌に「一日一生」という公開日記を連載していましたが、内村はその最初のところに、「一日は尊い一生である。これを空費してはならない」と書きました。

 若い人も年長の人もすべての人の一生、その一日一日は神の御手の内にあります。そして一人一人は神から与えられた一日一日を、救い主イエス・キリストの父なる神に信頼する確かさの中で、み言葉と御霊によって生かされるのです。

 主イエスは、私たちすべて者の罪と死を背負い、十字架の死を遂げ、墓の中から復活され、天に昇られ、終わりの日に再びお出でになり、私たちを神の国の永遠の宴に招き入れてくださる救いの約束をお与えになりました。

 私たちは、主イエスの山上の説教を日々新しく聞きながら、神への信頼、キリストによる平安と希望を先取りして生きる人生の確かさと、共に生きる幸いを分かち合い、キリストの福音を隣人に伝えて生き抜く生涯を導かれて行きたいと願ってやみません。

(祈り)
父なる神、不安と動揺に脅かされ、あるいは悲惨にさらされる世界のただなかにあって、掛け替えのない命、人格を与えられている一人一人の人生の歩みに伴ってください。世のすべての人々が神への信頼を抱き、キリストにある平安と希望に生きることが出来るようにお導きください。
主の御名によって、アーメン