ローマ人への手紙6章1〜11節
2013年3月17日主日礼拝
今日は最近新しくお見えになった方々もおられるので、ローマ人への手紙6章1節以下に直接触れる前に、「バプテスマ」ということについて、そのあらましを少しお話したいと存じます。今から59年前、1954年に日本聖書協会から刊行された口語訳聖書では、プロテスタントの諸教派、諸教会に通じる言葉として、ギリシャ語の「バプテスマ」という言葉はそのままカタカナ書きで用いられていましたが、1978年に、カトリックとプロテスタンが協力して新しく翻訳した「共同訳聖書」では「洗礼」という訳語が採用されました。
しかし、その後、日本バプテスト連盟、日本バプテスト同盟などからの強い要望が受け入れられ、1987年に新約聖書の翻訳が大幅に改定され、「新共同訳聖書」として出版された時には「洗礼」に「バプテスマ」というルビが付けられて今日に至っています。
今、バプテスト教会で新共同訳聖書が朗読される時はおそらく殆どの教会で「洗礼」という言葉は、ルビの方で「バプテスマ」と読まれていると思います。「洗礼」は、2世紀頃からカトリック教会でなされるようになり、また、16世紀から17世紀にかけての宗教改革の中で、プロテスタントの諸教派でも受け継がれてきた幼児洗礼を含む「洗礼」が執り行われてきました。
しかし、バプテストはそのような洗礼ではなく、「イエスを救い主と信じる信仰を」を自覚的、主体的に告白した人にのみ「バプテスマ」を授けるあり方を選び取ってきました。
このことは子どもたちの信仰を軽視することではありません。日本バプテスト連盟から発行されている『教会生活入門』にも、家族の誰かに信仰があっても、それは本人の信仰ではないことに留意し、『子どもが適当な年齢になり、自分の意志で信仰を告白できるようになるまで、教会は祈り育てて待つのです』(P.37)と提言されています。
特にカトリックにおいては、司祭が執行する洗礼で取り扱う水そのものが、罪を清める効力を持つという考えに対して、バプテストの先駆者たちは教職者にそのような特別な権威は聖書的に認められないという立場を貫いてきました。
バプテストの歴史やバプテスマのあり方については、連盟から出版されている『教会員手帳』にも、バプテストの歴史と共に、教会の礼典としての「バプテスマ」のことが書かれてありますので、互いに繰り返して学ぶようにすることが望まれます。
「バプテスマ」は全身を水に沈める形をとりますが、漢字では「洗礼」と言わずに「浸禮」と言います。バプテスト教会では、主イエスご自身がヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたこと(マタイ3章、マルコ1章等)、主イエスが弟子たちに命じられた福音宣教のご命令の中で、すべての人を弟子とし、バプテスマを授けるように言われたこと(マルコ16:15-16、マタイ28:16以下)、初代教会では聖霊に満たされた人々からキリストの福音を聞いた多くの人々が、「イエスを救い主と信じてバプテスマを受けた」(使徒言行録2章、8章等)ことなどから、全身を水にしずめるバプテスマを、聖書的なあり方として受けとめてきました。
昨年12月23日のクリスマス礼拝の中で、小野瑛菜さんがバプテスマを授けられた姿を目の当たりにされた方々は、今日お読みしたローマ人への手紙6章8節に書かれてあるように、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ということがまさにバプテスマ式によって象徴され証されたことをご覧になったのではないでしょうか。
パウロはローマ人への手紙1章から8章にかけて、人はどのようにして救われ、神によって義とされるか、について書き記しています。
神の御前にあって、人はどのようにして救われるのでしょうか。ローマ人への手紙3章の中から一つの御言葉を取り上げるなら、3章28節に、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」と解き明かされています。
この言葉は、5章8節に「わたしたちが罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と語っているキリストの十字架の愛による救いと結び合わされています。
パウロはイエス・キリストを信じる信仰による救いを語り続けましたが、元はユダヤ名でサウロと呼ばれ、ファリサイ派と言われる熱心なユダヤ教徒の若手のリーダーでありました。
彼は犯罪者として十字架にかけられ処刑された敗北者イエスをメシアと信じる者は、神を冒涜する者と感じとり、キリスト教徒を迫害し、見つけ出しては殺害することに息をはずませていた人でした(使徒言行録7:54-8:3)。
しかしそのサウロは、キリスト教徒を捕えるためにエルサレムからパレスチナの北方にあるダマスコという所に向かう途上で、復活のキリストに問いかけられ、その傲慢な生き方を打ち砕かれ、180度、人生を方向転換させられ、迫害者サウロから、イエス・キリストの福音を伝える伝道者パウロ(ギリシャ名)に変えられました(使徒言行録9;1-22)。
主イエスは、ダマスコにいたアナニアという弟子を呼び出して、打ちのめされたサウロの許に遣わし、彼をフォローさせ、彼にバプテスマを授けさせました。サウロはそのアナニアに連れられてダマスコに行き、弟子たちの仲間に紹介され、先ず、ダマスコでイエス・キリストの福音を伝える人となりました。
その後パウロは紀元47年から58年の間に3回の伝道旅行に出かけ、シリア、小アジア、ギリシャの各地で伝道し、多くの人をキリスト信仰に導き、弟子を養成し、教会を形成しました。
パウロが宣べ伝えたキリストの福音は、律法主義に立つユダヤ教の指導者や各地に移住していたユダヤ教徒から、非難され、迫害されるのは当然の帰結であったと言えます。
律法主義に立つユダヤ教徒たちは、パウロによって語られた「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ3:28)という言葉を逆手(ぎゃくて)にとって、「それならば、もっと罪を犯して赦しの恵みに預かったらよいではないか」と、反論する人たちがいました。
パウロはそのような不謹慎な反論に対して、6章2節にあるように、「決してそうではない」。
イエスを救い主と信じる信仰によってバプテスマを受け、8節にあるように、キリストと共に死に、キリストと共に生きる信仰に立つ確かさこそ、すべての人に求められる道であると説きました。
自分の弱さ、罪深さを我が身に深く覚え、私たちの罪と死を一身に引き受けて十字架の死を遂げられたイエスに心砕かれて、イエスを主と信じ、主イエスの愛と神の御言葉に聴き従っていくところに私たちの真実な生き方が見出されていくことを、パウロはこの6章において言葉を重ねて解き明かしています。
私たちの教会においても多くの方々がそれぞれ多様な状況の中でバプテスマを受けて、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に新しく生きる信仰生活を証してきました。
私たちに先立って天に召された方々の中にもまさにそのようにこの地上での信仰生活を歩み抜かれた方々が多くおられます。
27歳6カ月の若さで、天に召された一人の方についてお話しいたします。この方は、鹿児島教会でバプテスマを受けられた方でした。当時鹿児島教会の牧師をしておられた播磨聡先生からフォローするように依頼された高山真理さんという方のことです。お名前を覚えている方々もおられると思います。
高山真理さんは、一つの言い方ですが、文武両道(ぶんぶりょうどう)に秀でた人で、空手、英語弁論大会、書道などで、鹿児島県の代表に選ばれていた人でした。一度『聖書教育』(多分2001年か2年のイースター特集号)に播磨牧師から寄稿された『復活の希望に生きる』という記事に和服姿の真理さんの写真が掲載されたことがあります。
東海大学医学部に在学しておられた妹さんからは、「姉が家の中を歩き回ると部屋が揺さぶられて、私が姉の後から部屋を回って、落ちたものを広い集める始末でした」などとユーモラスなエピソードを聞かせていただいたこともありました。
その真理さんが1997年4月に、医師免許を取得し、千葉大医学部第二内科に入局し、外来の患者さんの喉にしこりがあることに気づき、普通の場合はどうなのかと自分の喉に触ってみた時、患者さんより大きくて固いしこりがあることに気づきました。
早速診察を受けたところホジキン病という悪性リンパ腫が発見されました。一度は完治したということで鹿児島のご自宅に帰り、鹿児島大医学部付属病院に通院し、その間鹿児島教会の礼拝に出席していました。真理さんは自分の健康についての危機感の中で、教会付属の「めぐみ幼稚園」に通って覚えていた聖書の言葉や讃美歌を思い起こして真剣な求道生活に導かれました。
ところが完治していたはずの病気が再発したことを知らされ、死を覚悟して近々再入院することになったある日曜日の夜、牧師館を訪ね、「自分がもし、退院できなくなった時には家族にこれを渡してください」と涙を流しながら、播磨牧師に封書を手渡しました。それは後で分かったことですが、遺書でした。「自分が亡くなった時には、鹿児島教会で葬儀をしていただきたい。クリスチャンではないお父さん、お母さん、どうかそのことを認めて許してください。」と書かれてありました。
それから約1年間、病床で、聖書を読み、届けられる説教原稿を読み、祈り、1999年のイースターに信仰告白をして、病床での按手祈祷でバプテスマを受けました。それから一か月後、自分で癌の治療についてパソコンで検索して、1999年6月の中頃、板橋区坂下の誠志会病院に転入院してこられ、播磨牧師から私にフォローを依頼されました。
初めて病床をお訪ねした時、私は、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ、わたしの助けはどこからくるのか。私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。~」、と歌われている詩編121編(P.968-969)の御言葉を書いたカードを差し上げました。
それから間もなくして真理さんの病気はドイツにある病院でしか治療できないということで町田市にある東海大病院に転入院されドイツに行く準備のための治療を受けていました。
しかし、病状は悪化し、困難に立ち至り、大阪の阪大付属病院にさらに転入院され、最後は2000年10月2日阪大病院で天に召されました。その時枕元には私が書いて差し上げた詩編121編のカードが置かれていたことを、後日、お母さんの高山秀美さんから知らされ、聖書の御言葉一句一句の大切さを改めて痛感させられました。
誠志会病院で初めてお目にかかった1999年6月から、阪大病院で天に召される2000年10月2日まで1年4か月の間、私たちの教会の礼拝テープを毎週送り続け手紙のやりとりをしていました。無菌室に入ったためにテープを持ち込むことが出来なくなってからもお母さんはテープはぜひ続けて送ってもらいたいと言ってこられ、テープによる礼拝をささげておられました。
重篤になってからはテープを窓の外からかざして見せるだけで真理さんは微笑み返していたということでした。ご両親は鹿児島市内で開業医をしていましたが、お母さんは真理さんの行く先々の病院の近くにに部屋を借りて付き添っていました。
時にはお母さんが代筆されたこともありましたが、真理さんからの手紙には毎月テープのお礼と、説教で示されたことなどが書き添えられ、手紙には必ず志村教会のために、また病む人のために、また、テープでいささか声がかれている私の喉のことを心配され、祈ります、と書かれていたこともありました。
播磨牧師宛の手紙の中には、幼稚園の時に聞いた「失われた一匹の羊」のことについて、「イエスさまは、いなくなった一匹の羊に百分の一の愛を分散して与えたのではなく、百の愛を全てその一匹に注がれたのですね」という言葉が書き添えられていました。ご両親は真理さんのその言葉を聞いて、「真理は失われていませんでした。私たちも真理と共に、イエス様の愛を求めていきたいと思います。」と言われ、毎週礼拝に出席されるようになった、とのことでした。
今日の御言葉の中でも「罪と死」ということが、重ねて書かれていますが、聖書が語る「罪」という言葉には「的外れ」という意味があります。人が神に対して、神が救い主として世に遣わされた主イエスに対して、無関心に打ち過ごし、神無き人生をたどることの空しさを私たちは自覚したいものです。
ローマ人への手紙6章10-11節には、「キリストの死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と書かれてあります。
「キリストの一度限りの死」とは、私たちが皆、例外なく直面しなければならない身体的な死だけではなく、私たちすべての者の罪と死を背負って十字架の死を遂げられ、復活して私たちを罪と死の支配から解放してキリストと共に新しい命、永遠の命に生きる者とされる主イエスの固有の死が示されている言葉です。
高山真理さんにとって死は、死を宣告された生物的な死で終わる死に尽きるものではなく、自分の全存在を掛け替えのない者として愛し、キリストと共に死ぬバプテスマを受け、キリストと共に尽きることのない新しい命に生きる者とされる人生に導かれる出来事でありました。
私たちは罪と死によって尽き果てる人生ではなく、神が真の救い主として世に遣わされた御子イエスを救い主と信じてバプテスマを受け、キリストによって与えられる平安、慰め、希望に生きる人となるように、聖書によって語りかけられています。
このような信仰へと私たちも導かれ、神を賛美し、神の御言葉に聴き、神への愛、人への愛に生きる人生に立たせていただくように御霊の助けと導きを共に祈り求めていきたいと願ってやみません。
(祈り)
神さま、私たちは誰一人として例外なく、あなたが救い主としてお遣わし下さった主イエスを離れて真の命に生きることは出来ないことを知らされます。十字架の死と復活をもって、私たちを、罪と死の支配から救い出してくださる御子イエスによって共に生かされて生きる道に私たちを立たせてください。
この世にある人生の歩みの中で遭遇する不安や悲惨に直面させられる中から、一人一人を、キリストと共に死に、キリストと共に生きる道へと導き、立ち上がらせてくださいますように。
主の御名によって、
アーメン