思いを一つにして生きる

ローマ人への手紙12章9〜21節

2014年8月3日主日礼拝

 6月以来、永田牧師が、主としてローマ人への手紙の中から説教を担当しておられますので、皆さんがローマ人への手紙に関する理解を深めながら、御言葉を聞いてこられたことと思います。
 去る主日は、矢野眞実、金丸英子両先生をお迎えして、「主イエスの眼差しに導かれて生きる信仰」の根本的なあり方、その生き方をバプテストの先達を通してお聞きする機会を与えられました。
 そして、8月10日には安藤榮二先生、8月17日には「平和礼拝」、31日には、大田雅一先生をお招きして、福音宣教の使命に生きる一人一人のあり方、また、教会のあるべき姿にふれることが出来るように願っています。

 ローマ人への手紙は紀元55―56年頃、使徒パウロが自分はまだ行ったことのないローマの教会の人々に、自分を紹介するために、また、1章16節に書かれてあるように、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」とキリストの福音を伝えるために書いたものであります。
 当時、ローマでは、ユダヤ人ではなく,異邦人のクリスチャン(ギリシャ人、小アジア、あるいは、地中海世界の人たち)と、ユダヤ人クリスチャンたちが一緒に礼拝をしていました。
 しかし、ローマでは、律法を重んじるユダヤ人と、律法を無視する異邦人のクリスチャンの間に分裂や騒動が起こり、ローマ社会に混乱を引き起こす事態となったために、ローマ皇帝は全ユダヤ人にローマからの退去を命じました(使徒言行録18章1-4節)。

 パウロが示されていた福音理解、信仰理解は、「すべての人が神の前に罪人である(1章18節-3章20節)こと。そして、神はすべての人の罪を贖い、救うために、キリスト・イエスを世にお遣わしになり、異邦人であると、ユダヤ人であるとを問わず、律法の行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とし、救いにあずからせることにありました。
 パウロは人はただ、このような神の恵みと愛によって救われ、新しく生かされるのであること(ローマ3章21-34、5章、6章など)を伝えようとしました。

 パウロはキリストの福音について、その福音を信じて受け容れる信仰について書いたローマ人への手紙によって、迫害や、分裂、抗争の危機にさらされていた諸国のユダヤ人や、異邦人たちが救われ、一つとされ、キリストの教会を形成していくようになるために、キリストにある熱い思いをもってこの手紙を書き送りました。

 ローマ人への手紙は、大きく分けて1章から11章までは、キリスト教の真髄となるキリストの福音それ自体を伝え、聖書の中でもかなり体系的にキリスト教についての神学的な論文とも言えるような内容が書かれています。
 そして12章以下には、イエスを真の救い主と信じるクリスチャンたちが、律法主義的な生き方ではなく、主の恵みと愛に応えて生きる具体的な生き方について書かれています。

 きょうの聖句、ローマ人への手紙12章9〜21節には、新共同訳聖書で「キリスト教的生活の規範」という小見出しが付けられています。イエスを主と信じる信仰に導かれたクリスチャンとしての新しい生き方について教えられている個所です。
 12章9節から16節までは、教会における他のクリスチャンとの関り合いの中での生き方にふれ、17節から21節まではこの世における様々な人々と共に生きる生き方について示されています。

 12章の前半には、新共同訳聖書で、「キリストにおける新しい生活」という見出しが記されています。9節以下の前提となることが記されていますが、12章1節以下ではキリスト者の新しい生き方についての三つの大切な基本となることが示されています。

 まず、12章の第1節には、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに進めます。」と呼びかけられていますが、だれか特定の限られた人たちに語りかけられているのではなく、集会に集うすべての人、私に、あなたに、すべての人、一人一人に語りかけられているのです。

 キリストにおける新しい生活は、何よりも、神の憐みによってなされることを覚えていくことが求められます。神の愛と憐れみを受けて、自分の体を神に喜ばれるささげものとしてささげる礼拝が新しい生活の第一歩です。

 私たちに、どれ程の功績があって、立派さがあって礼拝に連なっているのでしょうか。わたしたちは、ローマ3章にあるように、神の前にあっては「正しい人はいない。一人もいない。」と言われる人間の中のひとりであるのに、私たちはキリストの十字架の死によって罪赦され、キリストの無条件の愛によって、憐れみをいただいて、礼拝に招かれているのです。

 1節の後半には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとしてささげなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」と、奨められています。この世との様々なかかわりや誘惑にさらされながらも、キリストの十字架の愛と憐れみを受けて、ありのままの私を丸ごとひっさげて、神の御心をわきまえながら感謝と喜びをもって礼拝をささげ、日々変えられ、新しくされていく恵みに生かされる礼拝に私たちは招かれているのです。

 ですから、3節以下では、自分を過大に評価するようなことなしに、キリストの体なる教会に連なる一人一人として、神から与えられた賜物に応じて、謙虚に、主の愛に応え、神への奉仕に生きる信仰生活をするように語りかけられています。

 12章9節に、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」、と示されている御言葉もキリストの真実な愛に応えていく信仰生活の具体的なあり方として示されている生き方にほかありません。

 10節に、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」と奨められていますが、私たちは教会の交わりの中で、お互いに、兄弟姉妹のことをどのように思っているでしょうか。
 私たちには、自分を良しとし、他者のあり方を容認することが難しいというような弱さに付きまとわれることはないでしょうか。

 教会では、長い間、信者同士を「兄弟姉妹」と呼び合ってきました。年齢的な上下関係で、そこにタテ社会的意味を持ち込んで「兄弟姉妹」と呼称するのは適切であるとは言えません。しかし、この呼び方には親愛の情が感じられます。

 今日、高齢化社会、少子化社会の急速な進展に伴って家族関係の崩壊現象が見られ、信じられないような事件が家族の中で起こっています。「神とわたし」「神とあなた」というそれぞれの主体的な関係が形成され、その基盤に立って家族の絆が新しくされていくことが大切なのです。 お互いが主にある家族としての確かな交わりを作り出していくあり方を私たちはさらに見出していく課題を与えられているのです。

 先ほど触れた10章9節には、信者同志は偽りのないアガペ-の愛、キリストによって示され、与えられた愛によって結び合わされること、また10節では兄弟愛をもって、互いに愛し合い、尊敬し合い、仕え合うことの大切さが説かれています。
「兄弟愛」というもとの言葉は「フィラデルフィア」という言葉で、家族的な暖かい愛情を意味する言葉を、パウロはここで引き合いにだして語っています。パウロは信者同士の交わり、結びつきを、キリストの愛をもって親しく結び合わされる、主にある家族の姿をイメージしたのではないかと思われます。

 アメリカのペンシルベニヤ州にフィラデルフィアという都市がありますが、ニューヨークとワシントンDCの中間にある大都市です。この町は17世紀に、ウイリアム・ペンというイギリス人によって設立さました。当時、イギリスでは国内の争いが絶えないので、ウイリアム・ペンは、アメリカに渡って、聖書に書かれているフィラデルフィア、即ち、「兄弟愛」という意味を持つ都市を創設しました。

 教会では、いや、教会とは限りませんが、人が集まる組織の中ではしばしば、仲の良い人たちが、仲良しグループを作って固まり、排他的な分派のようになってしまう場合があります。「フィラデルフィア」は、10節に書かれているような良い面を作り出すのですが、聖書では「フィリア/友愛」という愛に基礎づけられているものです。

 9節に記されている「愛には偽りがあってはならない」というこの「愛」はアガペー、即ちキリストの愛、十字架の愛のことであるとお伝えしました。アガペーの愛は、神が人間を愛してくださる愛であり、報いを求めない愛、犠牲的な愛です。
 15節には、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。このことは、人の心の内を感じとり、人の心に触れて共感し合う交わりの姿を表しています。私たちの交わりが言葉の上での表面的な交わりではなく、主にある心の深みにある交わりを共有するものとなるように示される言葉です。
 このようなみ言葉に照らし出されて、私たちの交わりはどのように作りだされているか、改めて深く思い巡らしたいものです。

 14節に「迫害する者のために祝福を祈りなさい」とありますが、この勧め(すすめ)は教会内部の者同志への言葉でもあり、教会外の人との関わり、例えばローマ帝国がクリスチャン迫害したことや、キリスト者を会堂から追放しようとしたユダヤ教徒の動きも含めて語られたものと考えられます。
 しかし、この言葉は17節以下の世の人々に対するクリスチャンの対応のあり方にとっても大切な意味をもっています。
「だれに対しても悪を以って、悪を返さない」「自分で復讐せず、神の怒りに任せる」「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる」ということは、17節に書かれてあるように、「すべての人と平和に暮らす」最善のあり方です。このことは、だれでも「アーメン、その通りです」と応える以外にはない神のみ言葉です。
 私たちはこれらのみ言葉に接するとき、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と言われたイエスのあの山上の教えのみ言葉を想い起こさせられるのではないでしょうか。

 私たちは今、連日のようにウクライナでの紛争、ガザ自治区のハマスとイスラエルの激しい抗争に多くの子どもたちが命を失う危機にさらされたり、国内でも人の命があまりにもかろんじられている事件が続発しています。

 私たちは主のこのようなみ言葉を到底全うし得ない自分たちの真相に目を開かせられ、そうであればこそ、ヨハネ一3章16〜18節に、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。~子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」と語りかけられているみ言葉に心を挙げて聞き従っていく信仰生活へと導かれるように、御霊の執りなしを祈り求めていきたいと願ってやみません。

 8月という月に、私たちは、私たちの人生の歩み、私たちの国の歩み、また、いたるところで平和が脅かされている世界の情況を覚えながら、すべての人への救いの御言葉として語りかけられている、聖書の御言葉に心から、傾聴していきたいと願ってやみません。

(祈り)
神さま、私たちの教会を半世紀余にわたって導いてきてくださったことを心から感謝します。私たちのこの群れがキリストの愛によって生かされ、主イエスの十字架の福音を世に証し、伝えてやまない群れであるように導いて下さい。
多くの人々が、悲惨、苦悩、不安にさらされています。主なる神の御顧みが日々新たに注がれますように。教会の集いに直接出席できない方々の上に、主の慰めと平安と希望に生きる恵みを満たしてください。キリストの平和が世界に満たされますように。
アーメン