使徒言行録2章37~47節
2018年5月27日主日礼拝説教
去る5月22日にはペンテコステ「聖霊降臨祭」、の礼拝を捧げられ、午後には主にある交わりを感謝し、喜び、豊かにする「愛餐会」が行われました。「ペンテコステ」の由来とその意味については永田邦夫先生が当日の週報四面に分かりやすく記載して下さいました。
また、常廣澄子先生は、ヨハネによる福音書16章4b〜15節から、天にいます父なる神の御許から遣わされた御霊なる神が、救い主イエス様によって、人々と共におられる助け主として大いなる救いの御業をなさったことをことを解き明かして下さいました。
使徒言行録2章に、復活の主イエス様によって約束されていた聖霊が降り、ペトロを中心として力を与えられた弟子たちが神の大いなる救いの御業を語り、3000人ほどの人々がイエスを救い主と信じてバプテスマを受けて教会に加えられ、エルサレムに最初の会が誕生したことが書かれています。
キリスト教会にとっては、ペンテコステはまったく新しい意味を持つものになりました。過越祭からというよりも、イエス・キリストが復活された日から50日目に聖霊が降り、弟子たちや彼らと共にいた120人ほどの信徒たちに力が与えられ、多くの人々がイエスを救い主と信じてバプテスマを受け、エルサレムに最初のキリスト教会が誕生しました。
五旬祭の日には、2章3節以下に書かれてあるように、世界各地に散らされていた多くのユダヤ人、また、ユダヤ教に改宗した他の国々の人が大勢エルサレムに集まってきていました。
そのエルサレムで、キリストによって約束されていた聖霊が突然、弟子たちの上に降って(くだって)、彼らに力を与え、彼らによって語られた神の救いの御業を人々は様々な国々の言葉で聞き、また、12人の使徒たちを代表して語ったペトロの説教を聞き、3000人もの人々がイエスを救い主と信じる信仰に導かれ、バプテスマを受け、エルサレムに最初の教会が誕生しました。
このエルサレムでの画期的な出来事を起こしたのは、キリストの弟子たちであるように見る人がいるかもしれませんが、2章4節には、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と書かれています。
この時以来、キリストの福音は歴史を越え、民族を越えて全世界に宣べ伝えられ、キリストの体としての教会が建てられ、主イエス・キリストにある交わりを広げ、あるいは深め、神を愛し、人を愛し、「主の祈り」においても示唆されているように神の御国の到来を祈り求める群れを形成してきました。
掛け替えのない命、人格を与えられた一人一人の人生という視点から言えば、人はこの世における限りある人生を越えて、復活のキリスト、やがて再びおいでになる主イエス・キリストによって永遠の命に生きる希望を与えられています。私たちはそのメッセージをイースター礼拝や、召天者記念礼拝においても改めて聞いてきました。
このような神の救いの御業の主体は、父なる神、子なるイエス、聖霊なる神であります。
そして今は教会の時代であり、聖霊の時代であり、私たちの信仰は聖霊によって導かれ、支えられ、満たされているのです。
「聖霊」はギリシャ語で「プニューマ」にあたりますが、「神の霊」(マタイ12:28)と訳されたり、「父の霊」(マタイ10:20)、「キリストの霊」(ローマ8章9節)、「イエス・キリストの霊」(フィリピ1章19節)などと言い表され、神、キリスト、聖霊が一体であることを示されています。
私たちの目には見えない、しかし、生きて働かれる神としての聖霊が2000年の歴史を越え、また、民族や国を越えて多くの人々を導き、イエスを主と信じてバプテスマを授け、キリストの教会が建て上げられて来ました。
初代のキリスト教会において、そこに集められていた人々はキリストにあってどのような交わりを形づくってきたのでしょうか。その姿に私たちは目をとめ、今、ここで聖霊によって導かれている教会を見出していきたいと思います。
2章14節以下に、ペテロによる説教が書かれています。
人々はペトロが語った説教を聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(2章37節)と、言いました。
私たちは、聖書が語るこのような出来事に接して、どんな思いを抱いて聖書を読み、また聞き、その場面をどのようにイメージするでしょうか。2章41節には、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に3000人ほどが仲間に加わった。」と書かれています。
五旬節の祭りで多くの人々がエルサレムに集まっていました。神はその群集の前に弟子たちを聖霊によって立ち上がらせ、力を与え、神が御子イエス・キリストによってなし遂げられた救いの御業(みわざ)を、ペトロを通して語らせました。弟子たちを代表してペトロは語りました。
エルサレムの神殿の外庭には近くから、遠くから幾千人もの群集がぎっしりと集まっている。その人たちの前にペトロと11人の弟子たちがずらりと立ち並んでいる。彼らはどんな表情をしていたのでしょうか。
彼らは皆、イエスさまが捕らえられ、ユダヤ当局者やローマの総督から不当な裁判を受け、十字架上で処刑されるという残酷な出来事が起こる直前になって、イエスを裏切り、見捨てて逃げ去った人たちでした。
弟子たちを代表して説教をしたペトロも、裁判のためにユダヤ当局者たちによって引き立てられていくイエスの後に隠れるようにしてついていきました。しかし、最後には、「わたしはあの人を知らない」と三度もイエスを否定し、そのペトロを振り向いて見つめられたイエスの眼差しを見て、彼は外に出て激しく泣いた、とルカ福音書22章61-62節に書かれています。
イエスはただ独りになってユダヤ当局者たちによって捕らえられ、裁判に付され、十字架の処刑にさらされました。しかし、イエスは、不当な裁判にかけて十字架の死に至らせたユダヤの宗教的指導者たち、イエスをあざ笑い、罵声を浴びせかけたローマの兵士たちのためにも、十字架上の苦しみの中から、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23章34節)と執り成しの祈りを祈られました。
このようにして、ペトロも他の弟子たちも、イエス様がまさにすべての人の救い主であることを深く覚えさせられ、イエスの真実な愛をひしひしと感じながら、神がイエスによって成し遂げられた救いの御業を、聖霊の力に満たされて語るように変えられました。
ペトロの説教は、彼の経験や知識を語ったのではなく、旧約聖書の中の預言書や歴史書、また、詩編などによって予告されていたみ言葉を多く引き合いにだし、イエス・キリストによる救いの御業がまさに、神のみ言葉が成し遂げられた出来事であったことを語ったのでした。
それを聞いた人々もまた、聖霊に導かれて神のみ言葉を聞き、神のみ言葉に心を動かされたのです。
37節に、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ~」と書かれていますが、口語訳聖書では「強く心を刺され」と訳され、岩波版では、「深く心を抉(えぐ)られ」とより強い言葉で、人々の心の動きが言い表されています。
ですから、人々がほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問い、それに対してペトロが「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言って応えたことは、まさしく真剣なやりとりであったはずです。
このようにして、その日、3000人の人々がバプテスマを受け、新しく教会に加えられました。実に大勢の人々がバプテスマを受けました。しかしここで見落としてはならない言葉が語りかけられています。
大勢の人がいました。しかしペトロは、「めいめい、イエス・キリストの名によって」(38節)と言っています。多くの人々を十把一からげにして語ったのではありません。一人一人がイエスの十字架の死を仰ぎ、一人一人が悔い改め、一人一人が聖霊の導きに主体的に決断してバプテスマを受け、教会の交わりに連なる者となるように語りかけたのです。
また、42節に、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とありますが、「熱心であった」ということは、37節の「大いに心を打たれた」こととつながっている信仰の姿の現われなのです。
時代が変わり、國や人種を異にし、人は様々であっても、聖霊は今も変ることなく一人一人のうちに同じように働いてくださいます。私たちのこの教会でも、他の諸教会と同様に、このような出来事が起こされて今日あるを得ているのです。
42節~47節には初代教会の信者たちの信仰生活の姿が書かれています。43節に、「すべての人に恐れが生じた。」とあります。次の3章にあるペトロによる癒しの業との関連で考えれば、人々は、聖霊の力を受けた弟子たちによってなされた数々の業を見て驚き、そして神への畏敬の念を抱いたのです。
また、ひたすら心を一つにして、礼拝をささげ、祈る生活をしていきました。共に食事をし、パンを裂くことは、主イエスを中心とした交わりに欠くことが出来ない信仰生活のあり方です。
私たちは毎月第一主日に「主の晩餐式」を守ります。聖書に記されている主の晩餐に関わる御言葉を聴きながら、主の十字架の死と復活を記念し、永遠の命に生かされ、世の終わりの日に再びお出でになるキリストと共に永遠の祝宴に預かる希望を新たにされていきます。
信仰生活、教会生活は、ともすれば年月を重ねていく中で慣習化され、内実が失われていく危険性が伴います。毎週日曜日の礼拝もそうです。日曜日は当然あるべくしてあるのではありません。毎週が、キリストの十字架の死と復活、また聖霊に導かれて招かれる新しい主の日です。年月を重ねていると人間的な親しみも沸いてきます。それも神の恵みです。しかし、ヨハネの手紙一1章3節にあるように、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」。
1961年12月3日に誕生した志村バプテスト教会も霊霊の御業なくして57年の歩みを見出すことは出来ません。
このような主にある交わりとしてのイエス・キリストの教会で互いに日ごとに新たに導かれ、そして一人でも多くの方々が招かれ、キリストにあって共に生きる群れとされていくように聖霊の導きを祈り求めていきましょう。
〈祈り〉
主なる神さま、教会が、聖霊の助けと導きの許にさらに確かにキリストの体として建て上げられて行きますように。イエス・キリストの真実と愛に心打ち砕かれ、福音宣教の使命に一つとなって仕えていく群れとなることが出来ますように。
会堂で礼拝をささげることの出来ない友との交わりも大切にされ、深められますように。また、信仰によって生きる新しい友を日ごとに増し加えてください。
キリスト・イエスの御名によって、アーメン