フィリピの信徒への手紙1章1~11節
2017年10月22日主日礼拝
実りの秋を迎え、福音宣教の使命に応えていく教会の働きは、10月から下半期に入りました。既に下半期の新たな活動として9月24日から2018年3月25日にかけて、主日の午後、「介護予防の学び」と「讃美歌を歌う会」がそれぞれ4回ずつ行われ、みんなで活動に参加する教会形成への道を拓こうとしています。来週29日の第4主日には、「有銘哲也」さん、「ありめせつこ」さんご夫妻をお迎えして「特別音楽礼拝」がささげられます。
一人でも多くの人が招きに応えて参加され、ゲストとしてお迎えする有銘さんご夫妻とご一緒に心から主を賛美することの素晴らしさに満たされ、賛美を通して主イエスの福音を感謝し分かち合う群れとなっていくように祈り求めていきたいと願っています。
今日の聖書の個所は、このような「時」に当たって示唆に富む個所の一つであります。
フィリピの教会は、使徒パウロが獄中から書き送った短い手紙です。書かれた年代や場所については種々の説がありますが、エーゲ海の南東海岸に近い、現在で言えばトルコの西南部に当たるエフェソで紀元53~62年頃に書かれたのではないかと推定されています。
フィリピはギリシャ半島北部のマケドニア地方の交通の要路に当たる大都市で、フィリピの教会は、紀元49年~52年頃にわたってなされたパウロの第二伝道旅行の時に設立されました。この時、パウロはエルサレム教会の主要なメンバーの一人であったシラスと、パウロの弟子テモテと連れ立って小アジア西北端の町トロアスから船でエーゲ海を渡り、ギリシャ半島の北の方にあるマケドニア地方に行き、フィリピで伝道しました。その時の様子は使徒言行録16章11節以下(P.251)に書かれています。
その後パウロはマケドニア地方のテサロニケで伝道し、さらにギリシャのアテネ、コリントで伝道し、南エーゲ海を渡ってエフェソに帰り、エフェソで捕らわれ、投獄されました。
使徒言行録19章11節以下(P.251)に、パウロが、魔術師を追い払った出来事や、銀細工師が、偉大な女神アルテミスの神殿の模型を作って儲けていたことを厳しく批判したために騒動が起され、混乱が広がったために、儲け仕事を失ったユダヤ人たちが、ローマの高官に訴えて捕えられ、投獄されたことが書かれています。
フィリピの信徒への手紙1章12節以下を見ると、パウロは獄中で殉教の死を遂げるかもしれないと覚悟していたことも分かります。
フィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」であるとともに、「獄中の手紙」として知られています。牢獄の苦しみの中にありながら、「喜びの手紙」が書かれたのです。言い換えれば、キリストの福音の真髄に触れる手紙が牢獄の中で書かれたのです。このことからキリストの福音を伝え、キリストの愛によって結び合わされる交わりは、他の何ものによっても得られないような感謝、喜び、希望がにじみ出てくるものであることを示されます。パウロとフィリピの人々との交流関係の中から私たちはそのような恵みの豊かさ、確かさを知らされます。
今朝は1章1節から11節のところで示されることを三点にしぼって伝えたいと思います。
第一に、1章1節に「キリスト・イエスの僕(しもべ)であるパウロとテモテから、~」と、パウロはこの手紙の差出人として自分のことをただ「キリスト・イエスの僕」と書いています。この言い方は、フィリピの信徒への手紙だけに限られています。ローマの信徒への手紙では、「使徒と僕」の両方が書かれており、コリントの信徒への手紙一、二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙などでは「使徒パウロ」とだけ書かれています。
これらの手紙ではその背景になっている教会で、パウロの使徒職の正当性が批判されていたので、パウロは自分が復活のキリストによって使徒とされたことを明確に伝えなければなりませんでした。
しかし、フィリピの教会ではそのような問題は全くなく、イエス・キリストにある相互の信頼と、イエスをキリストと信じる信仰の堅い絆で結び合わされていた交わりが深められていたので、ただ、「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」と書きました。
「僕」と言うことばには「奴隷、仕える者、キリストのもの」という意味があります。パウロはキリストの使徒であってもあえて、自分自身を「キリストの奴隷、キリストのもの」として差出人の名前を書きました。
パウロは、イエス・キリストが徹底して神に従順であられたことにふれて、「~キリストはかえって自分を無にして、僕の身分になり、人間の姿になられ、へりくだって死に至るまでしかも十字架の死に至るまで従順でした。~」(フィリピ2章7~8節)と書きとめています。2章6節から12節までの言葉は、初代教会の信仰告白でもあり、またキリスト讃歌でもあったと伝えられています。
キリストが「神の僕」として歩まれた足跡を人々が心に深く刻みながら、心打ち砕かれて生きるときほんとうの交わりが造り出されていきます。私たちが、教会の交わりの中において自分たちを「キリストの僕」として覚え合うことは当然です。
そのような交わりの中から、世の様々な人々との日々の出会いにおいても、主イエスを見つめながら神に仕え、人に仕えていく僕としての道を選び取り、主イエス・キリストの十字架の愛を証していくように、主の導きを追い求めていきたいものです。
次に3節より11節までの中から第二、第三に示されることを申し上げます。
第二に示されることは、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなた方一同のために、祈る度にいつも喜びをもって祈っています。」(1章3、4節)から示される主にある交わりの豊かさであります。そのことを1981年8月から1998年7月まで16回に渡って行われた沖縄協力伝道を通して与えられた証としてお話させていただきます。
私はこの個所を読むたびに宮古バプテスト教会、八重山バプテスト教会との交わりから与えられた恵みを想起させられます。私が世界大戦後初めて沖縄に行く機会が与えられたのは1962年9月、私たちの教会の最初の木造バラック建ての会堂建築が始められた頃のことでした。まさに生々しくアメリカの占領下に置かれていた沖縄でした。
那覇空港でパスポート、ビザのチェックを受け、出迎えてくださった調正路牧師など5名の方々と対面した時には、パスポートを握りしめながら涙が出て止められませんでした。
その時、私は首里バプテスト教会の礼拝や、沖縄全島の少年少女大会、教会学校研修会で奉仕をさせていただくと共に、普天間や、嘉手納の基地、また戦跡などを見学して沖縄の状況が脳裏に刻み込まれ、その後私たちの沖縄協力伝道には、戦跡巡りが必ず組み込まれるようになりました。
宮古の開拓伝道は、1960年、首里バプテスト教会牧師を辞任して、信徒が一人もいない宮古島に、城間祥介先生、啓子夫人、生まれて三ヶ月の女児を伴って赴任され、始められました。1980年天城山荘で開催された連盟年次総会で城間先生からから、宮古における伝道の証を聞き、多くの方々が心を揺さぶられました。
そして私たちの教会ではその翌年、沖縄協力伝道をしていくことが総会で決議され、1981年の8月から宮古、八重山の開拓伝道に協力する道が拓かれ、1998年7月まで15年間にわたって毎年、伝道チームを派遣し、宮古、八重山での夏季学校や特別礼拝で奉仕する機会を与えられて来ました。
沖縄では宮古、石垣島の離島は先島と言われます。離島では占い師による土着のユタ信仰が根をはり、何かにつけて占い師に伺いを立て、その占い師のご託宣を信じて生活する人たちがいました。また、古い因習や地縁、血縁が根強く人々に浸透していたので、そこから一人抜け出して教会の集会に加わり、イエス・キリストを主と信じてバプテスマを受けることは容易ならぬことでした。しかし、宮古バプテスト教会の例で言いますと、主イエスの福音は宮古の人々をとらえ、年毎に信徒を増し加え、1986年7月、開拓26年目に31名の信徒により宮古バプテスト教会が組織されました。
しかし離島であるがゆえに、バプテスマを受けた若い人たちは高校を卒業すると島から離れて本土の大都市に出て行く人が多かったのです。
宮古の教会は「送り出す教会である」と城間先生からよく聞かされました。毎年のように各地に若い信徒を送り出しながらも、長い間信徒の家の二階、三階で教会学校、礼拝が守られ、2002年6月になってようやく空港の近くに独立した会堂が建築されました。開拓伝道が始められてから42年目のことです。今ではクリスチャンホーム二世の瑞慶山道弘、麗子夫妻が、城間先生の後任牧師として、信徒の皆さんと協力して主に仕え、伝道、牧会に励んでおられます。
城間祥介先生は1960年から2002年まで、27年間、宮古でひたすら伝道、牧会に心を尽くされました。
城間先生は、今は米軍の基地として接収され、長期化して大きな重荷を背負っておられる普天間にある普天間バプテスト教会に出席して協力しておられます。私たちの教会には2001年までに6回、特別礼拝、伝道集会の講師としてお出でになり協力して下さいました。
宮古の信徒たちもまた、礼拝、教会学校、家庭集会などで、心合わせて協力し合う群れでありました。このようなことから、フィリピの信徒への手紙1章3節~4節を読むたびごとに宮古バプテスト教会のことが脳裏に浮かんでくるのです。
しかし、宮古や、八重山の教会、そして今、全国各地に立てられている主イエス・キリストの教会は、フィリピの教会にもあったことですが、順調な時ばかりではなく、時代、社会の変動や困難に直面しながら、また教会内外の様々な出来事に遭遇しながら、支えられ、立てられ、福音宣教の使命に応えています。志村バプテスト教会は今年12月第一主日で伝道開始56周年を迎えます。全国の諸教会と共にどんなことがあっても一貫して福音宣教の使命に生きる群れでありたいと願ってやみません。
第三のことは、1章6節にあるように、伝道、教会形成も、教会を立ち上げ、クリスチャンの信仰生活を全うさせるのは主イエスご自身であり、すべては神の御業であるということです。確かにフィリピの教会はパウロやテモテやリディアという熱心な女性信徒などの協力によって開拓伝道がなされ、教会形成がなされました。しかし、その良い業はキリスト・イエスによってなされ、主イエスが成し遂げてくださった神の御業です。
また8節で、パウロは、「わたしがキリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」と書き留めています。「愛のこころで」という言葉は憐れみの心、慈しみ、慈愛などとも訳され(フィリピ2章1節、コリント二6章12節、コロサイ3章12節、)、ある英語訳(TEV)では、「キリストご自身から来る深い感覚」と訳されています。キリストのみ言葉とキリストの愛に揺り動かされる感性の豊かさによって、フィリピの教会とパウロたちは結び合わされていました。
伝道、教会形成、信仰的交わりの豊かさを造りだされる主体は主イエスご自身です。ですから私たちもその主に聴き従い、仕えることによって主にある交わりの豊かさと真実性に生かされていくのです。
このような関り合いによって、9節以下に示されているように、正しい識別や判断する力が与えられ、キリストが再びお出でになる時に、良い実を溢れるほどに結び、神の栄光と誉れとを讃えることができるように導かれることを、パウロは確信して牢獄の中からフィリピの人々に祈りの言葉を送りました。
キリストによる愛と信実、終りの日に向って与えられ、完成される救いの確かさを祈り求めながら55年にわたって導かれてきた福音宣教の歩みをさらに引き継ぎ、つないでいく一筋の信仰生活を分かち合っていきたいと願ってやみません。
〈祈り〉
主なる神さま、パウロは獄中の苦しみに遭遇しながらもフィリピの人たちと主イエスによって与えられる喜びと希望に生きる交わりをつくりだしていました。私たちはキリストのものとされ、共にキリストの福音にあずかっています。終りの日に向って救いの御業を成し遂げてくださる主の御導きのもとに希望と喜びをもってさらに歩み続けることができますように。来る主日の特別音楽礼拝に一人でも多くの方が主の招きに応えて来会されますようにお導きください。 主の御名によって、アーメン